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映画監督になるために脚本を/周防正行さんに聞く

周防正行監督に聞く

2012.11.06 開催 周防正行さんの根っこ「『終の信託』を撮って」
ゲスト 周防正行さん

シナリオ・センターでは、ライター志望の皆さんの引き出し(=ミソ帳)を増やすために、様々なジャンルの達人からその達人たる“根っこ=基本”をお聞きする公開講座「ミソ帳倶楽部 達人の根っこ」を実施。そのダイジェスト版を『月刊シナリオ教室』(今回は2013年1月号)よりご紹介。
ゲストは、映画『終の信託』の監督・脚本を手掛けた周防正行さん。『終の信託』のことだけでなく、そもそもなぜ脚本を書くようになったのか、映画をつくるときはどんなことを大切にしているのか、など沢山お話ししていただきました。映画にかける熱い想いをダイジェスト版でご紹介。

ひとりの弁護士との出会い

『それでもボクはやってない』のシナリオを書いていた時に参加していた刑事弁護の勉強会で、ひとりの弁護士さんと出会いました。

その方が、今回の原作となった「命の終わりを決めるとき」(のちに「終の信託」と改題)の作者である朔立木さんです。

この小説を読んでいる途中から、僕は「これは映画らしいな」と感じました。

検察庁の前に佇む女がいる。

徐々に職業や名前がわかり、待合室に通されていつ始まるかわからない取調べを待つ……。

そういった描写から濃密な空気が伝わってきて、朔さんはこれを活字で表現しているけれど、僕は映像で見てみたいと。

一読しただけで、この小説が持っている映画的雰囲気とテーマ性、その両方に、僕は「これだ!」という感想を持ちました。

さらに読み進めると、主人公の折井綾乃という女医に、バレリーナ時代の草刈民代の姿が重なってきた。そうすると患者の江木という男は役所広司さんの顔になっちゃって(笑)。

すぐに草刈に本を渡して、「これを映画化しようと思うから、読んでみてくれ」と言ったほどです。こんな経験は初めてでした。

この小説は、このまま映画になるんじゃないかと思ったんですね。映画化するために構成を変えたり、どこかを端折ったり足したりする必要はないんじゃないかと直感的に思った。

そこで、このままシナリオにしてみようと、小説がハコ書だと自分に言い聞かせて、最初から最後までダイジェストにするような形で書いていったんです。そうしたら、「あ、いける、これは大丈夫だ」という感覚がありました。

この1稿目を書いた後、僕が一番気になった点は医療シーンです。

司法に関しては僕も十分取材をしていたし、作者自身が法律のプロですから、そこは心配なかった。そこで早速お医者さんに監修してもらい、おかしいところがないかどうか、事細かに確認をしてもらいました。

すると現代の医療ではおかしいとされる部分も見つかり、そこをどうするか、少し悩みました。

例えば綾乃が睡眠薬で自殺を図るというシーン。

今は、睡眠薬では自殺できないそうです。「医者が自殺しようとしたら、確実に死ねる方法がいくつもある。睡眠薬で死ねないのは医者にとって常識だから、小説の通りだと不倫相手の高井に対する嫌がらせにしかならない」と言われてしまった。そもそも自殺する意思があるかどうかが問題だった。

すると、取材していたお医者さんから「なら、お酒飲ませちゃえば?」とアイデアをもらいました(笑)。

医局には絶対にお酒が置いてあるそうですね。明確な意思を持たないまま自分の気持ちを紛らわせるためにお酒と薬を飲み、どこかで「えいっ」ってなっちゃう心の弱さ、魔が差す感じで、この自殺未遂騒動のシーンは乗り切れるかなと。

そういう風に、現代のお医者さんの常識と照らし合わせて、物語に反映させるようにしていきました。

原作通りの年代設定

小説では最後に筋弛緩剤を使っているんですね。既にいろんな事件が起こっていて、筋弛緩剤は「殺人の薬」みたいなイメージがある。実際の医療現場では、こんなに簡単に使えないらしいんです。

ここ10年で病院の薬の管理はめちゃくちゃ厳しくなっているそうです。逆に、それまではいい加減だったと。

実はこの物語は時代設定が十数年前から始まって、最後は平成16年で終わるんです。

こうした理由2つあります。

1つは患者の年齢の問題。幼い頃に満州にいたという設定ですから。

もう1つは、今言った通り、薬の問題です。

薬の管理がある程度ルーズだった時代にしなければいけなかったんです。ですから、原作通りの年代設定を守らざるを得なかった。

十数年っていうのは非常に微妙で、映画を観た人が現代と勘違いしないよう、シナリオを作る際に注意しました。冒頭で何年の何月何日の出来事かを説明的なセリフで伝えているし、カレンダーも意識して撮っているところがあります。

景色を撮っても十数年前っていうのは、なかなか伝えにくいですからね。そこは、今回一番苦しかったところかもしれません。

それから、今は主治医ひとりでこんな判断はできない。脳死の判定も脳外科医2人以上の診断が必要で、重大な決定はほとんどグループで相談するようになっている。病院の倫理委員会にかけるとかね。

こういう風に医師ひとりで抜管を決めるということは、今はあり得ないけれど、十数年前ならあり得た。

小説のあとがきにも書いてありますが、実際にこういう事件があったわけです。女医さんが抜管して、患者が暴れて亡くなった。苦しみを取るために色々な薬を使った。

判決では、延命医療の中止そのものが殺人に当たるとされました。つまりどんな薬を使ったかどうかが問題なのではなく、抜管行為自体が殺人であるという判断で、有罪になったという事件です。

もちろん小説はこの事件の外形的事実を基にしているだけで、医者と患者の関係とか、家族のことなどはフィクションです。

最後の字幕も、原作にないものです。編集中に思いつきました。

有罪無罪をちゃんとやっておかないと、このあとあの女医さんどうなったんだろうってお客さんが思いますよね。それよりも、この女医さんがやったことってどうなんだろうと考えてほしかったのです。

観客の頭の中にある回想

塚原という検察官の背景を描こうと思ったら大変です。検察の仕組みや、塚原が検察庁の中でどういうポジションなのか。そういうことまで映画の中で見せることはできない。

さらに、小説では、塚原がマスコミに「女医を逮捕した」とリークする形で終わるんですが、これは検察官のあり方を見る上ではすごく象徴的です。

検察官にとって、世間で騒がれている事件を、不起訴のまま終わらせるのは、自分の責任を果たしたことにならない。

きちんと起訴できて初めて責任を果たしたことになるし、自分の名前をアピールできる。そういう組織の体質から不祥事も生まれる。小説では、そんな現状を象徴するような終わり方になっているんです。

ただ、僕はこの作品で司法の暴走を告発するのではなく、もっと根源的なところで、人としてどうかという問いかけにしたかった。

この検察官も、調書を取って逮捕した自分の行動に少しためらいとか疑念を持っているという余韻が残った方が、根本的な問題への問いかけになるんじゃないかと思いました。そこが小説とは変えた点ですね。

ただし、最後にマスコミに電話をするというシーンは、一応撮ってあります。大沢さんには、ラストで溜めを作ってもらって、その後電話をするという芝居をしてもらいました。

あの「溜め」の中に、観客が検察官の後悔を見るのか、それとも憎たらしいヤツで終わるのか。そこは観客に委ねています。

物語の最後の40分くらいが取調べのシーンですが、その間は回想はありません。取調べで回想を入れたくなかった。

でも実は回想が入っている。どこかというと、観客の頭の中。そのために、取調べまでに綾乃がどういう風に生きてきて、どういう決断をしたのかをきちんと見せておく。

そうすることで、取調室に入ったら、検察官が言ったことにまずお客さんが反応できる。綾乃に代わって、「自分だったらこう言う」ってことを必ず考えるはずなんです。

当たり前ですが、取調べというのは絶対事件の後にしかない。

例えば薬が2つあって、お医者さんは、こっちの方が効果があると思ったけど、効果は劣るが苦痛が少ないから患者に最適だと思って、もうひとつを選んだ。

で、その結果がとんでもないことになってしまって、事後の取調べでは「なんで効き目のある方を使わなかったんだ!」って話になる。

でもそれは事後だから言えることで、お医者さんにとっては現在進行形では、自分が想定したことと違うことが起きてしまうことがあり得るんです。

だけど「それは間違いでしょう?」と言われたら、「そうだ」としか言いようがない。でも選んでいる瞬間にはその結果が見えてない。

最も重要なことですが、裁判や取調べは、すべて結果から遡る。現在進行形で進んでいる時とは物の見え方が違う。だから裁判はむずかしいんだと思うんですね。

この映画はラブストーリー

江木が川辺で綾乃に終の信託をするシーンがあります。2人を病室以外で会わせたかった。

病院とは違う場所で2人が会うってことが、医者と患者というある一線を越え、人と人として向き合うってことの象徴になる。

川辺だからこそ、綾乃も自分のこと、つまりあれは自殺だったのかどうか自分でもわからないとか、江木さんに最初にCDもらった時にこういう風に感じたとか、そういうことを話せるんじゃないかと。

「そんなに体が弱ってる人が外に行きますかね?」って言われたんですが、ただ喘息って不思議な病気で、発作が起きない時はそんなに具合悪そうに見えない。

呼吸器内科の先生によれば、今は、喘息はきちんと薬を使ってコントロールできれば、すぐさま死に直結するような病気ではないそうなんですね。

ですから劇中では、江木が最近薬を飲んでなかったとか、吸入器も何も持たずに歩いていて倒れる、というように半ば自殺みたいな感じにした。つまり死に向かって歩いているという描写になっています。

土手に停めた車の中で、江木が延命治療をしないでくれと言った時に、綾乃が「あなたがいなくなったら私はどうしたらいいんですか」と言います。その時の江木のリアクションも含めて、僕にとってはこれ以上のラブシーンはないと思っています。

高井とのベッドシーンより、僕にとってはめちゃくちゃラブシーン。撮りながら、「わぁ、やっぱりこの映画はラブストーリーだった!」と思いました。

削ぎ落として構造を際立たせる

トップシーンは、綾乃が土手に花を捧げて検察庁に向かうという流れになっていますが、あの前に実は別のシーンがくっついていました。気になった方もいると思いますが、綾乃が「6時に約束がある」と言いますね。

彼女は病院を辞めた後も、気になる患者さんの元を往診に訪れている。その往診先で「夕方もう一度来ますから」と言い、そこからあの土手を歩いて……とつながっていたんです。

それが、編集段階でスタッフに、「映画の冒頭で、何事もなかったかのような綾乃の声は聴きたくないと思うんです」と指摘されました。日常の彼女の声で映画が始まるのは許せないと(笑)。

僕にはその言葉にピンとくるものがあって、江木と綾乃、塚本と綾乃、高井と綾乃、それに関係ないシーンは全部外しました。些末なことを切っていったんです。

このことが、この映画の構造をすごくはっきりさせる効果があったと思います。綾乃を中心とした3人の男性の話だということを、はっきりすることができたんです。実は、ここで初めて言ったことなんですが……(笑)。

でも皆さんがシナリオを書く時は、最初から「これ説明シーンだな」と削ぎ落とさないでもいいと僕は思います。シナリオは突き詰めて突き詰めて作っていくものですが、「後で振り返ってみれば余計だったな」ということはある。

これは綾乃と江木のラブストーリーでもあるわけですが、小説の方がそう感じられることは多かったと思います。

なぜかというと、小説では心理描写を言葉でできてしまうから。小説の特性ですね。よくテレビドラマで独り言で心の内を話してくれるじゃないですか(笑)。

それを全否定する訳じゃないけれど、僕はそれなしで映像で表現出来たり、もしくは観客が映像を見てそれを埋めてくれるというような作り方ができないだろうかと。

なんでそれがいいのかって言われると困るんだけど。映画ってそういうものでしょう。

ただね、1稿目を書く時は、親切になりすぎるくらい親切になってしまった方がいいんじゃないかという気もするんです。要するに、自分が何を伝えたいのかというのを、書きながら確認できるんです。

僕の場合は、1稿目ってどんなに長くなってもいいから、ぶち込めるだけぶち込んでみる。そうすると自分が何を伝えたいかが見えてくる気がするんです。

僕は全部自分でシナリオを書きますが、それは自分が優秀なシナリオライターだからではなくて、シナリオを書きながら演出の準備をしているんです。

ひとつひとつのシーンで僕が何を伝えたいのか、1稿目からきちんと書いている。後で消えたとしても、なんでそういう風になったかという、元々のところを自分で書いて知ってるんです。そのことが、監督として演出をする時に拠りどころになる。

役者さんに何かを伝える時にも、なんでこういうシーンになっているかということを伝えられる。他人のシナリオだったらそんなことはできない。自分で監督するからこそ、あらゆるシーンの成り立ちのすべてをわかっておきたいのです。

シナリオだけを書く人も同じでしょう。

例えば監督に突っ込まれた時に、どうしてこのシーンがあって、こういうシーンがないのかってきちんと説明するためには、最初から余計だと思うことも書いておいていいんじゃないか。

それで、稿を進めるたびに、それが必要じゃなくなっていく過程をわきまえておくと、次に何か違うものを書く時にも、それがすごく参考になるような気がします。

今回は小説のセリフを映画でもそのまま使っているところがたくさんあるんですが、やっぱり小説のセリフと役者が喋るセリフは違うんですね。撮る前に、リハーサルで大沢さんと草刈で本読みをしてもらったんですが、その時に本当に反省しました。

小説のセリフに引っぱられていたなと。僕はいつもセリフを書きながら声に出して言ってみるという作業を自然にやっていたんですが、今回それをやってなかった。

読み合わせの時に、実際に大沢さんの言うセリフを聞いて「大沢さんだったらもっときつく書いてもいいんだ」とかいろいろな発見があった。

原作小説があって、そこにセリフが書いてある時って、本当に気を付けなきゃいけないんだなと思いました。

僕がシナリオを書く理由

僕が最初にシナリオを書いた理由は、映画監督になるためなんですよ。

ただ単にピンク映画の助監督をやっているだけじゃ、「この人、一体どんな映画を作るんだろう」ってわからないわけですよね。

せめてシナリオくらいがなければ、相手に「僕はこういうモノが撮りたいんです」と伝えることができないだろうと思ったので。

で、違った意味で、今も監督になるためにシナリオを書き続けているんですけど。演出家としてきちんと演出ができるためにシナリオを書いている。

映画製作については、現場で学んだというよりも、映画を観ることで学びました。自分の好きな映画を分析する以外ないと思う。

なんでこの映画はこのシーンから始まってるのとか、なんでここでこのセリフなのとか、なんでこのシーンの後にこのシーンが来るのかとか。理屈で考えてみる。野村克也ですよ(笑)。

映画は結果があるから、徹底的に理屈で考え抜くことができる。それがすごい大事です。

僕は小津安二郎監督のシナリオをしょっちゅう読んでました。リズムとかユーモアとか、本当に影響を受けたと思います。

あとは大好きな映画を繰り返し見ること。僕はもう明確に具体的な影響を言えなくなっていますけれども、確実にそういうものの積み重ねで感覚的に身に着けました。

そうして自分の枠を作った後に、その枠を壊していけばいい。有難いことに、映画って本当に大勢のスタッフで作りますから、スタッフのアドバイスで枠をはみ出していけることはある。

自分の心の琴線に触れるというか、「これだ!」という基準はありますね。その答えはいつも用意しています(笑)。

生活している中で驚いたり面白いと思ったことがあった時に、それを友達に話して感動を共有してもらいたいと思ったりしますよね。

経験したことをどうやれば伝わるか、話の順序を変えてみたり、尾ひれを付けてみたりして、なんとか自分の驚きや喜びを伝えたいと思うじゃないですか。

僕もそういうことをするわけです。そこで伝えられて解消できちゃったら映画にする必要はない。友達に伝えても解消できない、世界中に伝えないと満足できないと思った時に映画にする。

日本の司法に関する問題を扱う映画が続きましたが、これも世界に訴えたいことですね。僕は日本人として、日本を誇りに思える国にしたい。

でも誇りに思えないことがいっぱいあって、こんなに悲しいことはない。おこがましいけれど、誇れるような国にしたいなという気持ちは強いですね。

突き詰めると普遍性が生まれる

僕が映画を作り続けて思うのは、きわめて個人的なことを突き詰めると、その先に普遍性が見えてくる。

どんなエピソードでも、きちんとていねいに見つめていくと、絶対にその中に何か共通するものが見えてくるはず。

だから、あまり怖がらずに、あるひとつの出来事を見つめていけば、その中から普遍的なことが浮かび上がってくる。

自分が何を思っているかとか、何を伝えたいかって、わかっているようでわかっていない。

作業しながら見えてくる。迷いながらやっていく中で、「こっちかもしれない」って突き詰めていくと、それが浮かび上がってくる。それを覚えておいてほしいんです。

これも患者と医者っていう特殊な話だけど、その特殊な話に本当に寄り添って、ひとつひとつのシーンをきちんと撮って、ていねいに積み上げていくことで、その先に見えてくるものがあるんだと信じている。

なんで信じているかっていうと、自分でシナリオを書いて、その先に見えてくるものが分かりかけてるから。そして撮影していくうちに、その先が日々わかってくるんです。

この映画に出てくる人物は全員愚かです(笑)。人間は愚かなんですよ。

女医さんだって、訴追されないようにと思ったらいくらでも方法はあった。世の中の事件って、「なんでこんなことしちゃったんだ?」というようなことばかりでしょう。

意識してそうしたわけじゃなくて、人って目の前で起きていることに一生懸命にならざるを得ないと思うんです。人の人生もテーマ主義では生きていけない。そういうところも、僕がこの小説に惹かれた理由なんでしょうね。

映画評などではこの作品は尊厳死がテーマだと言われているけれど、作り手の僕としては、システムから零れ落ちるものはいっぱいあるという話なんですね。

完璧なシステムはないけれど、一度機能を始めると、システムというのは自己目的化していくんです。

医療や司法だけでなく、いろいろなシステムが出来上がっている中で、僕らが完成形だと思っているものの中からこぼれていくもの、それを人としてどう考えるか……。

もしも僕が尊厳死の是非を問うテーマから考えたとしたら、まったく違う話になっていたと思います。

テーマ主義に陥ってしまうと、筆が進まなくなると思います。テーマは後から見えてくるものです。そうすることが、シナリオの早道じゃないかと思います。

皆さんには本当にいいシナリオライターになってほしいと思っていて、今日はそのお手伝いが出来ればと思って一生懸命話しました。

自分の大好きなものを徹底的に分析する、具体的なことにこだわる、そのことはぜひやってみてください。

出典:『月刊シナリオ教室』(2013年1月号)より
〈採録★ダイジェスト〉THEミソ帳倶楽部
周防正行さんの根っこ「『終の信託』を撮って」
2012年11月6日採録

プロフィール:周防正行(すお・まさゆき)

1956年、東京都生まれ。1984年、『スキャンティドール 脱ぎたての香り』で脚本デビュー。同年、小津安二郎監督にオマージュを捧げた『変態家族 兄貴の嫁さん』で監督デビュー。1992年『シコふんじゃった。』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。1996年、社交ダンスブームを巻き起こした『Shall we ダンス?』で第20回日本アカデミー賞13部門独占受賞という快挙を果たす。2007年『それでもボクはやってない』が公開され、各映画賞を受賞。2011年『ダンシング・チャップリン』が公開。単館上映にも関わらず、ロングランヒットとなり話題を呼んだ。2012年『終の信託』を監督。

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