「シナリオのテクニック・手法を身につけると小説だって書ける!」というおいしい話を、脚本家・作家であるシナリオ・センター講師柏田道夫の『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(「月刊シナリオ教室」)からご紹介。
脚本は三人称多視点で書くので、そこまで人称や視点を意識して書かないのではないでしょうか。でも小説は違います。柏田講師は「脚本を書いていた人が小説を書く際に、この違いを理解した上で書くことが求められる」といいます。それはなぜか。みていきましょう!
三人称と一人称
小説を書く際に決めなくていけない「人称」と「視点」について。
一番オーソドックスな書き方とされる三人称です。それも日本の小説では(なぜか?)いわゆる神視点、三人称多視点は避けるべきとされています。シナリオは三人称多視点で書かれますので、脚本を書いていた人が小説を書く際に、この違いを理解した上で書くことが求められるわけです。
三人称は分かりますね?
“私は”や“僕は”といった一人称に対して、“真美は”“佐倉は”というように、人物の名前を主語(視点者)として書いていく。“彼は”“彼女はその時……”といった場合も三人称で稀にあります。
で、三人称一視点というのは、“真美は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。”というように、真美という人物の視点と決めたら、真美の見たもの、心理心情や感覚を、文章として書いていく手法になります。
基本としてのルールですが、真美の三人称一視点ならば、同じセンテンスで他者の視点を混ぜてはいけない。“真美は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。隣に立つ佐倉は、そんな真美を田舎者だなと思っている。”といった書き方をすると、視点が混在していると見なされるわけです。
ただ、これが視点の難しさで微妙なところですが、この文章は佐倉の視点だとするならば、問題はなくなるともいえます。ただしその場合、佐倉には真美の心情は見えませんので正確には、“真美は渋谷の混雑ぶりに圧倒されているようだ。隣に立つ佐倉は、そんな真美を田舎者だなと思っている。”
もしくは、“隣に立つ佐倉は、田舎者だなとせせら笑った。”といった書き方が正解となります。真美による三人称一視点に戻りますが、では真美の視点を通すということと、“私は”という一人称を通すのと、どこが違うのか?
つまり“真美は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。”というのと、“私は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。”という書き方は問題がないように思えます。
“私”を“真美”に置き換えればOK?
“私”という一人称の場合は、私の見えること、心情で通すわけですから、三人称一視点とスタンスは変わらないことになる。じゃあ、真美の一人称で書かれた“私”という主語を、そのまま“真美”に変えてみたら、そのまま通用するか?
前回の真美視点で書いた文章の主語を“私”に置き換えてみます。
(※前回真美視点で書いた文章はこちらをご覧ください)
いつもそうなのだろう、渋谷の街は大混雑していた。
「道玄坂」と書かれたプレートの坂を、私は佐倉と共に登って行った。風俗店のけばけばしい看板や、ラブホテルのネオンが私には眩しくて、つい目をそむけてしまう。佐倉は目をくれず、私を見て、ニヤリと笑った。
「どこへ行くんですか?」
田舎者と思われたくなくて突っ張っていたけど、不安を隠せない声が出た。
佐倉は慣れたふうな口調で私に言った。
「大丈夫だよ。ボクを信用してよ」
問題ありませんね。違和感ない。
ということは三人称一視点で書く際は、私という一人称ととらえ方は同じでいいということになります。
ただし、これが「視点」の難しさ微妙さなのですが、“真美は動揺していた。額に汗の粒が浮いている。”というように、三人称であっても若干神視点(客観)的表現を混ぜるのもアリです。
が、これが“私は動揺していた。額に汗の粒が浮いている。”とすると、途端に違和感が生じてしまいます。
出典:柏田道夫 著『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(月刊シナリオ教室2015年4月号)より
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