「シナリオのテクニック・手法を身につけると小説だって書ける!」というおいしい話を、脚本家・作家であるシナリオ・センター講師柏田道夫の『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(「月刊シナリオ教室」)からご紹介。
今回は、前回ご紹介した「三人称一視点と一人称一視点」のその②。三人称一視点と一人称一視点の違いを知るために、実際に主語を入れ替えてみます。最初はちょっとややこしく感じるかもしれませんが、ここで確実に整理しておくと、人称と視点がブレない小説が書けるようになりますよ。
一人称一視点の文章と三人称一視点の文章を入れ替えてみる
「私は」「俺は」「ボクの」といった一人称で書く場合と、「真美は」「佐倉は」といった三人称で書く際の共通点や違いを述べています。
シナリオは三人称多視点で書かれるのですが、小説は基本的に三人称一視点が原則とされます。
で、“私は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。”の人称を三人称に変えれば問題ないか?
“真美は渋谷の混雑ぶりに圧倒されていた。”
この変換だと問題ありませんね。
じゃあ、一人称で通されている文章を、そのまま人物名にすべて変えれば三人称として通用するか?
三人称一視点の基本は、「視点者を決めたら、その人物の見た描写や心情で通し、他者の視点を混ぜてはいけない」ということですので、一人称と同じです。ですがやはり、一人称と三人称では違いがあるはず。
「真美は」といった人物を示す名前で登場させた場合は、「私は」と表現するよりも客観性が入り込みます。
“真美は春に高校を卒業したばかりで、この日初めて憧れの渋谷にやってきたのである。”という書き方での人物紹介は問題ありません。
この主語の“真美”を“私”に換えてみて下さい。
これも文章的に間違いではありませんが、私が誰か(読者)に告げているといったニュアンスになりますし、文章として固い印象がします。もし、一人称でこの情報を伝えたいのなら例えば、“わっ、やっと来た! 高校生の頃から私が憧れていた渋谷よ! 卒業の春をどれだけ待ったか。”というような。
逆にこちらの文の“私”を“真美”に置き換えると、ニュアンスがかなり変わります。一緒に来た誰かのセリフで、真美の思いを代弁している、もしくは自分を真美と呼ぶ人物の思いのようになってしまう。
“私は実は真犯人だった。”はなぜ反則?
もうひとつ、三人称とした場合の人物の客観性というは、一人称では通しにくい面も出てきます。
例えばミステリーで、“私”が探偵役で殺人事件の謎を解いていく設定だとします。その私が捜査を行い真相を辿っていくならば、読者を私と同化させて物語を運ぶことになります。それが最後に地の文やセリフで“私は実は真犯人だったのである。”といったドンデン(トリック)とするのは反則となる(これを過去にやってのけた画期的な古典ミステリーがあるのだけど)。
“探偵のカシワダは”といった表現で、探偵役を三人称で登場させ、その人物視点で物語を運ぶ場合も、できるだけ読者をその人物の視点なり心情と重ねられるように書くべきです。
ただし、そこに客観性が入り込むために、人物の感情や情報を明らかにせずに書いていくことも許される。ですので、カシワダがセリフとかで「実は真犯人は私なんだ」と告げるのは(もちろん、そこに持っていくまでの書き方、展開が問われますが)ギリギリありなのです。
カシワダの見たものを描写しつつも、その人物の生い立ちや情報などを全部明らかにする必要はない。一人称も全部を明らかにはできませんし、する必要もないのですが、肝心のことを隠すと書き手の都合になる恐れが出てきます。
また、真美が初めて会った男(佐倉)から声をかけられ、“真美はいかにもチャラそうな佐倉の顔を見た。” あるいは、“真美はいかにもチャラそうな男の顔を見た。男は佐倉というキャバクラのスカウトマンであった。”と書いても(微妙に三人称一視点から外れているのですが)ギリギリ間違いではない。
これが“私はいかにもチャラそうな佐倉の顔を見た。”と書くと変で、一人称のルールから外れてしまいます。男が佐倉という名前であるといったことは、「俺はよう、佐倉っていうんだ」といったセリフで分からせなくてはいけないわけです。
一人称と三人称一視点はルール的には同じなのですが、微妙なニュアンスの違いがあることがお分かりでしょうか?
※前回ご紹介した「三人称一視点と一人称一視点①」はこちらからご覧ください。
出典:柏田道夫 著『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(月刊シナリオ教室2015年5月号)より
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