シナリオ・センター後藤所長に
創設期のシナリオ・センターに迫る
シナリオ・センターの新井です。
今年はシナリオ・センター創立45周年であり、創設者新井一の生誕100年の年です。
しつこいくらいですが、今年は言い続けます。
昨年から不定期にUPしている突撃インタビューを後藤所長にしてきました。
祖父新井一の右腕であった後藤所長。
きっと、孫の私も知らないことをたくさん話してくれるはずです。
シナリオ・センター立ち上げの歴史が紐解かれます!
後藤―兄が「お前を一生食べさせてやるから脚本家人になれ」と言ってくれたんですね。私も「それならやっても良いかな」と(笑)。
新井
シナリオを学ぼうと思われたのはいつ頃なんですか?
後藤
私が大学生くらいの時だったと思います。
きっかけは私の兄です。
映画がものすごく好きな人で。
橋本忍さんに「すぐにでも行きます」という弟子志願の手紙を出するくらい。
でも、早々に返事がきて断られてね(笑)。
新井
あらら(笑)。
後藤
「弟子が勝手に返事を書いたんだ」って言ってましたけど(笑)。
兄は落胆してました。
それで自分はあきらめたんだけど、今度は「代わりにお前がやれ」と。
新井
そんなに唐突に言われても(笑)。
後藤
ええ。私の人生どうなるのって思いました(笑)。
でも、兄が「お前を一生食べさせてやるから脚本家人になれ」と言ってくれたんですね。
私も「それならやっても良いかな」と。
新井
(笑)。なんとしても自分の夢を引き継いで欲しかったんですね。
後藤
そうですね。
私も引き受けたからには、一生涯に一本でもいいから映画に携わろうと決意してね。
まず「映画会社に入れるような勉強をしよう」と思ったんです。
兄は松竹に脚本部があることを知っていて、
「そういうところを狙え」と助言してくれましたね。
松竹の脚本部には橋田壽賀子さんもいらっしゃったから。
新井
計画をしっかり立てられていたんですね。
後藤
そうね。
目標が決まったら、あとはシナリオを勉強しなければならないでしょう。
それで当時シナリオ作家協会(以下:作協)がシナリオの作家を養成する講座「シナリオ研究所」(以下:シナ研)
があって、そこへ入ったんですね。
新井
へぇ~。その頃にシナリオを勉強をするところがあったんですね。
後藤
ええ。
そこではいろんな人たちが教えていたんです。
箱書きの書き方なんて橋本忍さんに習ったんですよ。
新井
え!? 橋本忍さんに!?
お兄さんからの因縁でしょうか(笑)。
後藤
(笑)。
その中で新井先生も教えていらしたんですね。
当時は※東京映画の企画部長もされながらだったと思います。
※東京映画 当時あった東宝の関係の製作プロダクション
新井
そこがシナリオ・センターの創設者の新井一との出会いなんですね。
後藤
シナ研で教えている人のほとんどが「才能がないと創作はできない」という考えでした。
それに対して、新井先生は「シナリオは誰でも出来る、才能なんていらない」と仰っていました。
当時としては珍しかったですね。
新井
シナリオって「才能ありき」だったんですね。今もそういう傾向ありますけどね。
「教えるけど、真似できるならやってみれば」というような。
後藤
そうですね。
新井先生は誰にでも分かり易く伝えるために研究を重ねられていた。
しかも情熱を持って教えられてるのが伝わってくるんです。
ものスゴい情熱でしたから。勉強していてとても楽しかったですね。
新井
新井一は当時、現役の脚本家でもありました。
でも教えることに情熱を持てたのはどうしてなんだろう?
ライバルを育てることであるじゃないですか。
後藤
シナリオを書くことの楽しさを伝えたかったからでしょうね。
制作現場でも大道具、小道具、美術、録音あらゆる部署のスタッフを集めてシナリオを教えていたらしいんです。
その様子を苦虫を噛むつぶしたような顔して見ている人もいたと聞いたことがありますが。
そんなことは気にもしなかったみたい。
新井
うわぁ…その人たち怖いなぁ。僕だったら気になってしょうがない(笑)。
「スタッフに教えたって無駄だし、余計なことをするな」という感じでしょうか。
それでも「やるんだ」と思っていたんでしょうね。
後藤
まあ※原島先生は「新井先生がシナリオを教えなかったら、きっと東宝の役員になれたろうにねぇ」
って仰っていたくらいですから(笑)。
※原島将郎…新井一の右腕としてシナリオ・センター講師に従事。新井一との共著『シナリオの基礎Q&A』がある。
新井
はははは(笑)。
「伝えたい」気持ちを抑えられなかったんですね。
でも、後藤先生も当初の目的である書き手ではなく、
教えようと思われたのはどうしてですか?
後藤
新井先生の講義のお手伝いをしているうちに徐々。
シナ研が学生運動の影響でなくなってしまったんです。
それで新井先生の自宅で勉強するようになって。その頃からお手伝いするようになりました。
新井
僕が生まれる前に、うちに後藤先生は来ていたんですね(笑)。
後藤
そうなるわね(笑)。
しばらくして学生運動も落ち着いて、東京映画の2階や、渋谷のビルの一室を借りて講座を開いたり。
あちこちで教えていた気がします。
私は新井先生のそばで講義を聞いて、添削の手伝いをしているうちに自然とシナリオの技術が身に付いてきました。
だから私はシナリオの勉強ノートや講義録などは一切持っていないんですね。
新井
なんだか落語を覚えるみたいな感じですね。
そうやって段々と書き手から教える方へシフトしていったんですね。
後藤ー新井先生は3人しか集まらなくても、全力で教えようとされる方だったんです。「たった3人か…」と手を抜くなんて絶対になかった。
新井
シナリオ・センターの創立は1970年です。
渋谷で教室を借りて講義をしている時だったと聞いています。
後藤
そうですね。
渋谷には一年もいなかったんじゃないかしら。
創立当初は転々としていましたからね。
ようやく落ち着いたのは南青山です。そこで20年くらい教えていたんじゃないかしら。
※現在のJCBのビルがある裏手あたり。「表参道」B3出口側。
新井
僕の記憶にあるのはその南青山に移動してからなんです。
南青山より以前のシナリオ・センターってあんまりわからなくて…。
どんな感じでしたか?
後藤
今思うとよくやっていたなぁ…と思うことばかりです。
例えば新井先生が週に6日講義をしていたり。
さらに生徒さんが書かれた習作を当日に添削して返していましたからね。
新井
週に6日一人で講義をしてたんですか?
しかも、当日に添削して返却って……いくらなんでも無茶ですねぇ。
後藤
新井先生も流石に講義中、体調悪くなって声が出なくなったりしてね。
裏で添削をやっている私が代わりに講義をして、新井先生は私がやっていた添削をするんです。
新井
添削が休憩みたいな…、休憩になっていないですけどね(笑)。
新井先生と後藤先生以外のスタッフいなかったんですか?
後藤
いなかったわね(笑)。
新井
はははは(笑)。
後藤
だからもの凄いハードでしたよ。
他には東京で教えるのとは別に各地でシナリオを教えていたこともありました。
新井先生が「これからは地方の時代だ」って言ってね(笑)。
仙台だったかしら。100人入るホールに3人しか集まらなくて。
新井
3人!?
それって、今のシナリオ・センターの3階のホールに3人だけポツンって
相当悲惨な…。
後藤
「さすがに3人でホールはあまりにも…」ということで、茶室で教えることになってね。
畳の上にみんな座って(笑)。
新井
(笑)。 ほのぼのシナリオ教室みたいな。
後藤
でも、そのうちのおひとりが「※『シナリオの基礎技術』読んでいます」って言ってくださってね。
新井先生も私も涙が出そうになって…。とても嬉しかったのを覚えていますね。
※『シナリオの基礎技術』 新井一のシナ研での講義をまとめた一冊。シナリオの入門書。
新井
聞いてるこちらが泣きそうになります(笑)。
後藤
ふふふ(笑)。
でも新井先生は3人しか集まらなくても、全力で教えようとされる方だったんです。
「たった3人か…」と手を抜くなんて絶対になかった。
さすがにその後「東京に帰るのが嫌だなぁ」と仰っていました(笑)。
自分から「地方に教えに行く」って仰って人が集まらなかったから、多少後ろめたい気持ちがあったんですね。
新井
なるほどなぁ…。
僕にとって印象的でよく覚えているのは、今の北青山にうつる前の90年代初頭の南青山時代。
小学生くらで、たまに遊びにいったりしたんですよ。
で…その時期にバブルの影響で地上げ屋がやって来て…。
後藤
偶然、地上げ屋が来た時に、立ち会ったことがあったわ。
私しかいなくて、「土下座しろ!」って言われてね(笑)。
新井
はははは(笑)。
ウチで新井一と小林代表があらゆる嫌がらせをされた話をしていましたもん。
ガラスを割られたりは序の口で、ウ〇コがばらまかれたり・・・(笑)。
それこそ、ドラマの世界。これはフィクションじゃないのか、っていう。
当時、小学校高学年の僕は、「なんかおじいちゃんたちは大変らしい」と。
「一生、シナリオ・センターとは関わらないでおこう」と子ども心に思っていました(笑)。
後藤
ふふふ(笑)。
新井
あの頃は世の中バブルだったんでしょうけど、シナリオ・センターにバブルはほぼ無縁。
数年して1993、94年頃ですかね、新井一がウチに帰ってきて「やっと黒字になった」
って言っていた時のことを、いまだに覚えています。
創立から20年以上たってようやく黒字ですからね、喜びもひとしおだったと思いますね。
後藤
黒字になったのは小林代表が新井先生をサポートされるようになったからですよね。
本当に大した人だわって思いました。
新井
経営って、大変ですよね。
でも、手元の資料なんかをみると、70年代後半から80年代にかけては
サマーセミナーでハワイやハリウッドに行ってたりしているんですよね。
赤字まっしぐらの時期なはず。…なんかおかしくないですか(笑)?
後藤
(笑)。あとニューヨークブロードウェイ研究ツアーとだとか。
行きましたねぇ(笑)
新井
創立から20年以上、ずっと赤字続きなはずでしょ?
「コメディか」ってツッコミたくなりますね(笑)。
そこはエンタメしなくていいじゃない。
でも、今思っても僕は新井一が落ち込んでいるのは見たことがないんですよ。
後藤
そこはやっぱり新井先生のお人柄だと思いますね。
新井先生は愚痴を言ったり、暗くなったりすることなかったんです。
新井
結構大変なことだと思うんです。余裕がなくなったりしますよね。
僕も気をつけなきゃと思いますけど、ついつい暗くなっちゃいます。
もし、出張講座やって3人ぽっちだったら、絶対へこみますもん。
後藤
新井先生はもともと映画業界の方でしょう。
映画の人間って肝が据わっているんだろうと思います。
興行の世界ですから、いろいろな経験をなされんたんでしょう。
新井
お客さんが集まるかどうかは誰にも分からない世界ですよね。
代表が言うには、給料が遅れることもたくさんあったと聞きました。
後藤さんはそんなシナリオ・センターで教えることを途中で投げ出したくならなかったんですか?
後藤
投げ出すなんて、考えたこともなかったです。
新井先生には「シナリオというものをもっと伝えたい」という信念がありましたからね。
私は安心してついて行くことができました。
新井
なるほどなぁ。
後藤先生もシナリオ・ライターとして、もっと活躍して自分の名を広めたいとは思わなかったんですか?
後藤
それは全くなかったんです。私自身、名前の残らない作品も沢山書いてきましたが。
自分の名前を残してもたかが知れているなと分かっていましたから。
私は脚本家の水木洋子さんが好きだったんですが、彼女ぐらい書ければ名前を残そうと思えたかもしれません。
新井
新井一も名前が残らない作品を沢山書かれていました。
一般的には、名を残したいと思ってシナリオを学ぶ方が多い気がします。
教えている方にジレンマとか出てこないものなんですか?
後藤
それはないんです。
新井先生が一番伝えたかったことは書くことの楽しさだったと思います。
名前が残る残らないはその結果ですから。
新井
大人になると「楽しむ」って難しいですよね。
僕は小学生にシナリオを教える機会があるんですが、
子供たちは余計なこと考えずに楽しんでいます。
後藤
どうしても大人はアレコレ考えてしまうからね。
でも、シナリオを書いているその人自身のことを考えたらね、
「書くことを楽しむ」ことを忘れないでいて欲しいと思いますね。
新井
確かにコンクール入賞やデビューを目標とすること、それも大事ですが
シナリオの面白さはそれだけじゃないですからね。
後藤
ええ。それに何年もシナリオ勉強したのに、賞を獲れなくて
結局何にもならなかったって思って欲しくないですから。
私はその人にとっての生き甲斐になって欲しいって思ってシナリオを教えているんです。
一番大切にしてきたのは「シナリオを楽しんでほしい」「生き甲斐にしてほしい」という気持ち
シナリオ・センターは、結果的に多くのプロの出身ライターさんが誕生し、活躍して下さっています。
コンクールもほとんど受講生が受賞しています。
でも、一番大切にしてきたのは「シナリオを楽しんでほしい」「生き甲斐にしてほしい」という気持ち。
新井一から後藤さんと綿々と引き継ぎ、経営面から代表の小林が支えていたから45年続いたのだと、改めて思いました。
わかりやすい結果、目先の成果に引っ張られては経営というのは、きっとうまくいかないのだと思います。
赤字なのに海外に研修旅行を生徒さんたちと行っていた新井一の経営判断は、きっと間違っていなかったのでしょう。
いや、間違っているかもしれない…?
なんだか新井一自身が『喜劇!社長シリーズ』に加わってもよさそうです。
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