最初に越えなければならない壁
こういう風に、シナリオの書き方や創作理論をお話しすることは滅多にないんですが、それは、自分でもあまりよくわからないからなんです。
インタビューなんかでは、それなりに答えたりするんですが、大抵後悔するということもあって、こういう公開講座はめちゃ久しぶりです。母校の45周年、新井一先生の生誕100年ということもあって、今日は覚悟を決めて来ました(笑)。
僕がシナリオ・センターに通っていたのは、26歳くらいの頃です。当時は青山通りの反対側の南青山にありました。
なぜ入学したのかというと、個人的な歴史があるんですね。遡って話すと、僕は中学校前くらいからサッカーをやっていました。
大して強いチームじゃなかったんですけど、僕はすぐに耳年増になる傾向がありました。自分の頭の中ではすごいサッカー理論があるのに、練習はしないっていう……(笑)。
自分が思っていることと、実際にプレーできることがどんどん乖離していって、そのうち基礎から追いつくのが辛くなってきて、プレーヤーでなくなっていきました。
高校からバンドをやり始めたんですけど、そこでもまったく同じような状態になって、バンドをクビになったんです(笑)。文句とか理屈ばっかりで技術が追い付かなくて、「それよりも練習してくれ」って言われました。
次に、小説を書きたいと思った時期があって……それもすぐに偉そうになって、でも自分では実際に書きゃしないっていう……。そういう感じで20代半ばまでウダウダとやっていました。その頃ですね、シナリオ・センターに入ったのは。
もうこういう繰り返しは嫌だという覚悟があって、シナリオ作家養成講座では、休まずに宿題を提出して、皆勤賞をもらいました。ゼミでも、必ず20枚シナリオは持っていきました。書かずに評論家みたいになるのは絶対にやめようと思いました。
テレビドラマや映画を観て、ああでもないこうでもないと言うよりも、それがたとえ観客としてどんなに面白くなかったり、すごいと思えないものであっても、そこには何らかの成立している理由があって、学ぶべきことがあるはずだと。ドラマを見て批判的なことを言わないようにしようと決めたんですね。
ゼミでは、書いたものをみんなの前で読んで、本人は一切釈明せずに言われ続けるわけですが、僕はゼミでは結構評判が悪かったみたいで、そんなに褒められなかった。
すごい天敵が一人いて(笑)、「軽い」とか「ユルい」とか言われ続けていましたね。まぁ今も言われてるんですけど(笑)。その当時の、ゼミで言ったり言われたりする感じが、一番自分の中で鍛えられたことですね。
テレビでも映画でも、観ている人の傍に行って説明したくなる時があるんですよ、「ここ、そういう意味じゃないんだよ」みたいに。
人は、どうやったらそんな解釈ができるんだろうかって思うようなことは山ほどあるけど、でも、それがお客さんや視聴者なんです。自分が視聴者になってみると勝手なことを言うわけで……。そこにあまりストレスを感じなくなったのは、ゼミで鍛えられて、覚悟が出来ていたからだと思います。
物書きになりたい人って、基本、傷つきやすいじゃないですか(笑)。書いたものを悪く言われたくないから誰にも見せない……って、何に向かって書いているのかわかんない状態になるじゃないですか(笑)。だから、それが脚本家として最初に越えなくてはいけない壁じゃないかなと思います。
僕は今でもそういう傾向がありますね。なんとなく脚本家の傾向を見ていると、「脚本家になりたい」っていう男子と女子は、真逆な感じがする。
女性は、何かを乗り越えて一段上に行こうとする野心がある。だから女性脚本家って、みんなパリッとしてる(笑)。意志が強いというか、そこを超えてきた感じがします。男性は、普段から「いえ、僕はだいじょぶなんで」って感じが多いので(笑)、タイプが違いますよね。