新井一先生との出会い
私が新井一先生にお目にかかって、シナリオを教わり始めたのは、赤坂のシナリオ会館の講座でした。シナリオ・センターが誕生する前ですから、私は1期生より前のゼロ期生になるんですね。
新井先生の最初のご挨拶はよく覚えています。「新井一と言います。洗濯の時、洗い始めますね。あらいはじめ、と覚えてください」とおっしゃっていました。
僕は10代に俳優座の養成所に入って、俳優の勉強をしていました。それがどうも才能がないということで、歌の方に進みました。テイチクレコードの専属だったんですが、ディック・ミネさんという素晴らしい男性歌手がいらっしゃいました。
当時、テイチクレコードの部長は僕をフランク永井の対抗馬として売り出そうとしていて、ある時ディック・ミネさんに「この新人に芸名をつけてくれませんか」って言ったんです。そうしたら「俺、それどころじゃないよ。これから税務署に行くんだ」って行っちゃった。それで「ゼイムショ行き」から「ジェームス三木」にしようと(笑)。
あとでディック・ミネさんにその話をしたら「じゃあ、俺が名付け親だね」って。僕の名前は洋風ですが2世でも何でもなく、フランク永井の対抗馬としてつけられた芸名です。
そして私は歌手として『ナイトアンドデイ』というナイトクラブに7年くらい立っていました。その頃に何となく小説を書いたんです。『装飾音符』という題名の小説で、日本のバンドマンがアメリカの有名なバンドマンの真似をしているうちに、どっちが本物かわからなくなるっていう話でした。
それを同人雑誌に投稿したら、『新潮』のその年の12月号で、全国の素人の書いた小説を10点選んで載せるというのに選ばれました。それで、ひょっとしたら、これは書けるかなと思った時に、ふと夕刊を見たら「シナリオ研究所研究生募集」って書いてあって、それで通うようになったんです。新井先生はそこの常任講師でした。
ところがその頃、安保反対の学生運動が盛んになって、内ゲバをする連中がいましてね、ゲバ棒を持って教室に入ってくるヤツもいて、言い合いになった。威勢のいい講師がいて、上着をパっと脱いで「なんだ、てめぇら。文句あるならかかってこい!」って大騒ぎになった。
そんなこんなでシナリオ研究所が閉鎖になって、新井先生が、これじゃ生徒たちが可哀相だっていうんで、新井塾という私塾を自宅でお始めになって、それがだんだん大きくなってシナリオ・センターになっていった。
今は、シナリオライターになる人は、まずシナリオ・センターに行かなくちゃ、というくらい、いろんなライターを輩出して、今日ここにいる中からも、私のあとを継ぐようなライターが出てくるかもしれません。私は出てこないでほしいですけど、こっちの仕事がなくなるといけないですから(笑)。
でも今年の大河ドラマもシナリオ・センター出身のライターですし、他にもたくさん出てきていますね。競争率は高いですけど、頑張っていただきたいと思います。これだけ若い人が多いと期待が持てますね。