脚本家でもあり小説家でもあるシナリオ・センターの柏田道夫講師が、公開されている最新映画を中心に、DVDで観られる名作や話題作について、いわゆる感想レビューではなく、作劇法のポイントに焦点を当てて語ります。脚本家・演出家などクリエーター志望者は大いに参考にしてください。普通にただ観るよりも、勉強になってかつ何倍も面白く観れますよ。
-柏田道夫の「映画のここを見ろ!」その17-
『暗くなるまで待って』こんなシンプルな造りながら、際立つサスペンス!
今年のテレビ朝日新人シナリオ大賞(※2019年11/18〆切)テレビドラマ部門の課題が「サスペンス」ということで、「サスペンスとは何か?」、どこに留意すると「サスペンスを際立たせられるか?」を、名作から学んでいきます。
前々回は現在公開されている『ホテル・ムンバイ』のサスペンス要素をご紹介しましたが、この映画は実際のテロ事件を題材にした上に、「群像劇」でしたので、手本としては扱いにくいかもしれません。
そこで、半世紀以上前の作品ですが「まさにこれぞサスペンス!」といえる『暗くなるまで待って』。
群像劇ではなく、たった1人の主人公が、ひたすら恐ろしい目に遭う物語。ネットやレンタルで観られます。
もともと『ダイヤルMを廻せ!』(スリラーの神様ヒッチコックの名作の1本。ヒッチコック映画についてはいずれまた)の脚本を書いているフレデリック・ノットの舞台劇の映画化作品です。名匠テレンス・ヤング監督、オードリー・ヘップバーンが盲目の人妻スージー役で、新境地を拓いたと当時評判となりました。
サスペンスとしての作りですが、まず、この主人公スージーのキャラクター設定に注目。見た目からしてか弱そうな彼女なのに、事故で盲目になってしまったというハンデまで持っています。そのスージーが犯罪に巻き込まれてしまう。同様の分かりやすい設定のサスペンスは数多く作られています。近年は邦画でも、森淳一監督、吉岡里帆主演の『見えない目撃者』が公開されたばかりですね。
ついでに逆バージョンで、盲目のじいさんの方が強くて、健常者の若者たちがひたすら怖い目に遭う、という『ドント・ブリーズ』(2016)がありました。これも『暗くなるまで待って』要素を上手に使って、とてもよく出来てたサスペンスでした。未見の方はぜひ。
さて『暗くなるまで待って』ですが、ヒッチコックタッチを継承しつつ、以後のこの手のサスペンス、スリラーに多大なる影響を与えました。スージーは盲目というハンデゆえに非力ですし、何度も襲われる危機に気の毒なほどに怯えるのですが、そのハンデを武器とする機転で立ち向かいます。
そのために、物語が展開する限定空間として設定されているのが彼女のアパート。元々舞台劇でしたからそうした造りなのですが、ここも注目点です。
冒頭から【起】は、事件の発端をスージー抜きで見せていますが、【承】以降はこの部屋がほとんどの場面として固定されます。ただし、舞台と違って、アクセント的にアパートの外のシーンも効果的に挿入されます。
留守をすることになる夫のちょっとした過ちから、スージーは(麻薬が仕込まれた)オルゴール人形を預かるはめになり、これを回収しようとする3人の男に、あの手この手で迫られる。スージーの味方は上の階に住む少女グロリアだけですが、大きな力にはなりません。
スージーを騙そうと謀る3人の男たちと、彼らの正体に気づいていく過程。何といっても、圧倒的な弱者であるスージーが、冷血殺人鬼のロート(アラン・アーキン!)といかに立ち向かうか? さらにロートの逆襲の方法の秀逸さ。
サスペンス要素はじわじわと重ねられ、このクライマックスでピークに達せられます。改めて今観てもハラハラドキドキの連続です。ここに持っていくための舞台限定のさせ方と、主人公スージーによる弱者なりの反撃、さらにそれを超えていく危機また危機の連続。
登場人物も主人公のスージー以下、夫サムと少女グロリア、3人の悪党、事件のきっかけを作る女リサのほぼ7人(とわずかな端役)だけ。そうしたシンプルなアイデア性で、上質なサスペンスが出来るという見本としてぜひ参考にして下さい。
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Wait Until Dark(1967)?Is Somebody There?
-柏田道夫の「映画のここを見ろ!」その18-
『家族を想うとき』直に訴えないからこそ「テーマ」がじわじわと伝わります
すいません。また間が空いてしまいました。今年もぼちぼちと映画の「ここを見てね」という話をしていきたいと思います。
今回は昨年末に公開されて、まだじわじわと上映が続いている『家族を想うとき』。「イギリスの巨匠」といえば、真っ先に名前があがるケン・ローチ監督作。
私はローチ監督の長編第2作の『ケス』と出会ってから、ずっとずっと追いかけ続けている人です。『ケス』は孤独な少年が、野生のハヤブサを育てる物語で、あの主人公の少年がハヤブサを飛ばし、見つめる眼差しが忘れられません。
この作品もですが、ローチ監督の共通する作風はドキュメンタリータッチでしょうか。リアルに冷徹に登場人物たちの生活や日常を追いかけていく。
つまり、いかにも俳優たちがお芝居をしているとか、演じていると感じさせない。観客は彼らの日常を、一緒に生きているような感覚で見ているうちに、ここで起きていることは〝現実〟なのだと感じていく。
ローチ監督には、過去に題材を得た作品もあるのですが、特に本作のように、今の時代を描く作品は、リアルさがより色濃く出ます。そのタッチにより、現代社会が抱えている問題があぶり出される。キャメラが追いかける人物たちの日常が、痛みとしてビンビンと伝わるのです。
前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、社会から弾かれた人たちの物語。イギリス(だけでないのだけれど)が抱える社会制度の不備、弱者を容赦なく斬り捨てる今の時代の空気をリアルに描いて、観客の心を揺さぶりました。
この『家族を想うとき』も、このスタンスはまったく変わらない。邦題のように自分の家族の幸せ、ささやかな暮らしを守ろうとする父親リッキーを中心に、彼と彼の家族に次々と降りかかる困難を描いていく。
ところで、作者が自分の作品を創るときに、心臓部となるのが「テーマ」です。
テーマの定義は簡単ではないのですが、ともあれ作者が「これをこの作品で描きたい」「伝えたい」といったこと、思想や主張といったこと。どんな作品であれ、その作者が自らのテーマを念頭に、それをどう据えて描くと受け手に伝えられるか?と考えます。
ただ、いわゆる社会派作品とかでは、このテーマが全面で出ることが多く、それがあまり強く出過ぎると、「なんだか重そう」とか「説教される?」みたいな空気が発散され、敬遠される場合もあります。
ケン・ローチは社会派監督と称されるように、『ダニエル・ブレイク』にしても本作にしても、確かに今の社会が抱えている問題をえぐり出し、観客に深く考えさせる映画になっています。
そうなのですが、本作を見ている間、ただひたすらこの家族四人が直面する問題や辛さに心を痛めつつも、彼らの幸せを祈らざるを得なくなってくる。
皆さんが「テーマ」というと、つい登場人物が声高にそれを叫んだり、主張したり、怒りをあからさまにぶつけたりといった場面を描いてしまったりしませんか? 実はその手法は安直かもしれません。
『家族を想うとき』の彼らは、この社会が抱える問題を直接に不満をぶちまけたりしない。デモ行進みたいにプラカードを掲げて主張したりしません。
つまりテーマを見せるのではなく、静かに観客に浸透させる手法をとっています。でも、映画館を出る時、心ある観客ならば、彼らの幸福を祈りつつ、街の景色を眺め、空気を吸い込んで「この時代は一体何なんだ?」と思うはずです。
これこそ、テーマを観客に委ねる創り手の見事な手法なのです。
もうひとつ、見ていただきたいのは、このターナー家長男のセブ君の描き方。セブ君ってホントにしょうがない奴だな……と腹が立ったりするんだけど、でもさ、結構いい子なんだよね……ってところです。そうそうだから家族なんだよ、と思わせます。
今の時代だからこそ、たまらない映画です。
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映画配給会社ロングライド
ケン・ローチ監督最新作『家族を想うとき』12.13(金)公開/90秒予告篇