「シナリオのテクニック・手法を身につけると小説だって書ける!」というおいしい話を、脚本家・作家であるシナリオ・センター講師 柏田道夫の『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(「月刊シナリオ教室」)からご紹介。
今回は向田邦子さん作品から学びます。取り上げるのは、脚本と小説でトップシーンが違う『 隣りの女 』。どう違うのか、なぜ違うのか、柏田講師が解説。脚本も小説も書きたいかた、参考にしてください。
シナリオと小説を同時進行で書いた『隣りの女』
向田邦子さんの亡くなる直前の作品『隣りの女』を教材としています。
本作は、2時間テレビドラマの脚本と小説が残されていて、おおよその換算ですが、脚本は400字詰め原稿用紙100枚前後、小説は90枚前後ではないかと思います。
同じくらいの分量に見えますが、シナリオ(脚本)は柱でシーンを指定して、簡単なト書きとセリフで書かれていて、余白が多いのですが、小説は地の文とかでそれなりに描写されますので、文章量としては小説の方が多くなります。
この作品の場合、向田さんはほぼ同時進行で脚本と小説を書いているのですが、実際にどちらを先に仕上げたのかは不明です。
ただ、脚本を書いていた人が、同じ作品を小説化する場合は、先に全体の流れなり作りがはっきりとする脚本を仕上げて、それをベースに、細かい描写なりを文章化しつつ、新たな展開や場面などを加えて小説とする場合が多いように思います。長年脚本を書いてきた慣れもあるでしょう。
また、脚本はどうしても現実的な制作条件や、現場とのすりあわせなどで、直しを余儀なくされます。いわば、物語の骨格なりテーマといった心臓部を残して、そぎ落とした設計図要素が強まるのが脚本です。
その点小説は、そうした摺り合わせ要素は少なくなり、作者が書きたいように書けます。
脇に逸れますが、脚本家がすでに書かれた小説とかを原作として脚本化する場合、これと逆の作業となります。その際にドラマや映画にするための現実的な条件(想定時間や予算や規模、スケジュール、キャスティングなど)を踏まえた上で脚色をする必要があるわけです。
脚色の度合いはケースバイケースで違ってきますが、基本としては上記のように原作となる作品の心臓部のテーマや、そもそも持っているカラーなどは尊重しなくてはいけません。
“ミシンを踏む女”シナリオと小説でどう書かれているか?
さて、『隣りの女』のどちらが先かはともかく、トップシーンがまず違います。脚本は、主人公の時沢サチ子(28)(演じたのは桃井かおり)が、ゴミ袋を持って、行ってしまうゴミ収集車を追いかける場面から。
ここで同じく間に合わなかった、アパートの“隣りの女”である田坂峰子(38)(浅丘ルリ子)も登場させ、2人に会話をさせています。
そのやりとりで、主婦であるサチ子と、水商売の峰子の境遇の違いを分からせ、さらに峰子の部屋にきた三宅信明(30)(火野正平)や、管理人夫婦も登場させ、人物紹介をしながら峰子の生活と男関係といった事情も伝えています。
そして次のシーンが、
〇アパート・時沢の部屋
内職のミシンを踏むサチ子。
同じ柄のブラウスが何枚も。段ボールの箱など。
2DKのつつましい部屋。
サチ子、かなり激しくガーと踏む。
踏みながら、うしろの壁を気にしている。
となって壁の向こう、隣の部屋から聞こえてくる峰子と三宅の別れ話、痴話喧嘩の声を聞くという場面になります。小説はこの場面から書かれています。
ミシンは正直である。
機械の癖に、ミシンを掛ける女よりも率直に女の気持をしゃべってしまう。
いつもあの声が聞こえてくる頃合だから、あんな声なんか聞きたくないから、いつもの
倍も激しくガーと掛けなくていけないと思っているのに、ミシンはカタカタカタとお義
理に声を立てている。
映像としてのシナリオは、主人公サチ子の日常を動きで見せた上で、同じシーンの中で、もう一人の重要人物峰子を登場させているのですが、小説はミシンを掛けるという場面から、それもサチ子の心理描写を赤裸々に表現するという入り方になっています。
小説の“機械の癖に、ミシンを掛ける女よりも率直に女の気持をしゃべってしまう。”など、シナリオのト書では表現できません。巧みに小説の文章に転換していることが分かりますね。この続きはまた今度。
出典:柏田道夫 著『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(月刊シナリオ教室2020年2月号)より
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