「いい話」は極力書かないようにする
向田邦子の短編集、『思い出トランプ』(新潮文庫)を教材として、400字詰め20~25枚程度の小説を目指します。
これまで述べてきたことのポイントは、“私”や“僕”といった一人称ではなく、(向田作品の場合なら)“宅次は”とか、“達子は”“江口は”というような三人称で書きます。それも(これは触れていませんでしたが)、その三人称の視点を決めたら三人称一視点、つまり、それ以外の人物視点を混在させる書き方をしない。
さらに以前述べたのは(※1)、ファンタジーなど特殊な設定、世界や人物でなく、ごくあふれた庶民の悲哀を描くようにする。で、いわゆる「いい話」、つまり書き手の体験に基づいたいい話、心温まる話、小さな幸せでオチをつけてよかったね、といった話は極力書かないようにする、ということ。
これについて補足すると、あくまでもレッスンとして書くという前提ゆえです。「いい話」や「泣ける話」というのが、小説に限らずシナリオでもここ数年来のトレンドになっていて、皆さんも盛んに書こうとする。
プロの書き手がそうしたテイストを手がけると、とても胸に染みて、じんわりと感動させる作品になったりします。それはプロは、長年培ってきたテクニックがあるので、商品として通用するものが書けるから。
残念ながら皆さんの書くこの手の作品は(全部が、ということではなく概してですが)、書き出しから結末が予想できたり、登場人物がそれこそいい人ばかりで、当たり前によかったね、となったりして、感動させてくれないから。
小説に限らず(それこそファンタジーであったとしても)、登場人物は単純、平面であってはいけません。そうした人物の深みを描くために、向田作品のように「毒」を仕込むようにしてほしいのです。