言葉1
シナリオ・センター代表の小林です。毎日がもう夏のようで、これから梅雨になるといわれても嘘みたいです。
昼間は暑くても、夜になると涼風も吹いて気持ちがよいので、このまま湿度が上がらないでいてくれたらなぁと願っているのですが、今年の梅雨はどうなるのでしょう。
安心安全なオリンピック大会は、22万5千人の観客を見込んでいるとか聞くと、背筋が寒くなります。10万人以上の選手・オリンピック関係者もプラスされて、どのようにすれば安全にできるのか、具体的に教えて欲しいものです。
そうすれば安心して、中止、延期と叫ぶ人も減ると思うのに、何故言えないのでしょうね。
万全の安全策を、耳障りのよい情感だけの言葉ではなく、きちんと講じてほしいものです。
一般人は、家に籠り、お店も閉めて、じーっとして、オリンピックが通り過ぎるのを待つしかないのでしょう。嵐の夜みたいに。
それにしても、感染拡大は感情論と言い切る与党の皆さんの肝っ玉の太さを私も見習いたいです。
言葉2
先日、野田秀樹さんのお芝居「フェイクスピア」を観劇してきました。
白石加代子さん、橋爪功さんのベテラン勢に、野田芝居初の高橋一生さん等の配役の面白さにも惹かれたのですが、久しぶりに野田MAPというより、その昔の夢の遊民社のお芝居を拝見した気がしました。
野田秀樹さん得意の言葉遊びが復活し、しかもシェイクスピアとイタコを使ってというのが、すごく面白く楽しく、ちょっと説明が多くなっていたような昨今の野田MAPが再びチェンジした感じで、久々に堪能しました。
言葉というものは、それ単体では生きはしない、しみじみ言葉の変幻自在な面白さゆえの大切を感じました。
演劇や映像では、小説と違って台本には字で書いてあるけれど、それは見ている人にはわかりません。
この「フェイクスピア」で、「イタコ」になれない見習いを台本では「居た子」と書いてあるのだそうです。
稽古場見学をされた作家の角田光代さんがこう書いてました。
「例えば、『イタコ』と『居た子』であると文字でみればすぐにわかる。声にのせると、文字のように一瞬で『居た子』と文字変換されない。
楽(たの)というキャラクターが、高校時代『楽しんでいこう、タノ死んでいこう』とからかわれたというセリフがあるが、これも『タノ死んで』とは観客の脳内ではすぐには変換されない。
けれども人の声で発する言葉は、当然ながら書かれた言葉より生々しい。文字に変換されずとも取り憑くように耳に残る。
台本で読めば、あの言葉は、そうかこの言葉と呼応しているのか、あの言葉はここへ導くのかと、文字面ですぐに納得できるが、それは記号の理解だ。
生身の俳優がその言葉を声に乗せて発する、その時に言葉は血肉を得る、舞台の上の『現実』で生きはじめる」と。
セリフの妙味とはなにか、言葉の面白さとは何かということを端的に語ってくださっていました。
シナリオ・センターのゼミナールでは、20枚シナリオを朗読してもらいます。
観客(ゼミ仲間)に、文字ではなく耳で入ってくることでその意味が通じるのか、その想いが伝わるのかということが大事だからです。
小説ではないので、読んでもらうのでは意味が違ってくるのです。
シナリオは文字で書くのですが、映像を描いています。
セリフが耳に残り、ト書が絵として浮かんでくるものでなければなりません。
新井一は、「自分で描いたシナリオを声に出して読んでみてください」とよく言っていました。
それは、言葉が形になっているか、文字が目に見えているかということを自分が知るための作業として申し上げていたのです。
ゼミで朗読すると「書く」のではなく、「描く」のだということが、わかる瞬間でもあります。