「もっとうまく伝えられたら…」という思い、ありますよね。シナリオ・センターは、1970年に優秀なシナリオライター・脚本家、プロデューサー、ディレクターの養成を目的に創立されて以来、日本中の人にシナリオを書いてもらいたいと思っています。シナリオの技術が身につけば、誰でも、うまく伝えられるようになるからです。
「シナリオを本格的に学びたい」「趣味や教養としてシナリオを学びたい」「小説にも挑戦したい」方向けのシナリオコースでは、目的や年齢に関わらず60,000人以上(2017年4月現在)が学び、シナリオコンクールの9割をシナリオ・センターの受講生が席巻し、3,000人以上がデビュー、600人以上が第一線でプロとして活躍しています。長く活躍できる実力あるプロを養成しているため、テレビドラマでは、毎日出身ライターの誰かがシナリオを書いています。
シナリオ・センターは、創設者 新井一が体系づけた「シナリオの基礎技術」を基に、他に類を見ない実績を築いてきました。
「自分の想いを、日常やビジネスで伝えたい」方向けの法人コースでは、お子さんや学生を対象にした「キッズシナリオ」「カレッジシナリオ」、ビジネスパーソンを対象にした「ビジネスシナリオ」、プロデューサー、ディレクターを対象にした「エンタメシナリオ」を2010年に発足。これまで7000人以上(2017年4月現在)の方に伝える力を身につけてもらっています。
シナリオを書くことで、人を、社会を、もの事を俯瞰することができるようになります。
自分とは異なる人物の気持ちを考える「想像力」と、相手に伝える「創造力」は、シナリオによって磨かれます。誰もが、自分を活かしながら、相手のことも活かすことができる「みんな主人公」、そんな世界だって実現できます。
あなたが夢を目指せる場所。それがシナリオ・センターです。
シナリオ・センター創設者の新井一は、「シナリオを書くことで、創る側も観る側も考える力が身につく」と「テレビは日本人の考える力を奪う『一億総白痴化の箱』」と言ったジャーナリストの大宅壮一に対抗。この考えを粋に感じた大宅から、シナリオ・センターを創設する際、「新井さんが目指すのは『一億総シナリオライター化』」と言葉をもらう。
1915年1月1 日東京生まれ。理髪店の長男として生まれ、成城中学卒業後、理髪師、美容師として、理容学校の教師を勤める。
その後水産講習所(現水産大学)入学。卒業後魚河岸の魚河岸新聞「魚商通信」の編集に従事。戦中、「魚の配給に軍部の不正あり」と公表した為「事変惑乱罪」で逮捕される。出征後、無罪となる。劇作家川村花菱に師事し、戦後、劇作家として「ボス」(新国劇)などを発表。文春企画、東宝映画で映画企画に参画。東宝の総帥小林一三の肝いりで、東京映画の企画室長に。テレビ創世記には、テレビ部長を兼任し、映画企画にあたり、また脚本家として活躍。東宝のドル箱シリーズ「喜劇駅前シリーズ」ほか300 本の映画脚本を執筆、ラジオ、テレビを含めると2000 本以上にも及ぶ。
映画業界で、東宝の社員でありながら脚本家との2 足のわらじをはいていたのは新井一がはじめて。「映画やテレビは藝術ぶらずみんなが楽しめなくちゃ」が口癖で喜劇が得意だった。
1964年、東京映画撮影所で、「いい映画を創るためにはシナリオを知らなくて」とスタッフを集めてシナリオを教えて始める。その後、企画実務と脚本家の経験を活かして、独自の「シナリオ基礎技術」「シナリオ診断学」「プランニング戦略」を開発。映像表現のノウハウを体系的に創り上げ「シナリオ基礎技術」(ダヴィッド社刊)はシナリオのバイブルと言われている。
1970年シナリオライターの養成期間としてシナリオ・センターを創立。1972年に、株式会社となる。全国に3400 名の会員を持ち、600名以上の出身ライターを輩出している。
多くのプロを産んだ功績とシナリオをこよなく愛していたことから「シナリオの父」と呼ばれた。
1997 年11月23 日83歳で死去。
シナリオ作家協会名誉会員、シナリオ作家協会功労賞、日本映画製作者連盟永年勤続功労賞
著書「シナリオの基礎技術」「シナリオの技術」「シナリオQ&A」(ダヴィッド社)、「シナリオ作法入門」(映人社)「シナリオ虎の巻」(彩流社)
脚本家 ジェームス三木さん
「表紙の書き方、原稿の綴じ方から教わった。名著『シナリオの基礎技術』は今でもバイブルのように参考にしている」
脚本家 洞澤美恵子さん
「書けなくて悩んでいた時期に励ましのお手紙をいただいて、感動した。今も辛いときに見る宝物です」
脚本家 内館牧子さん
「先生に教わったノウハウだけで、朝ドラも大河ドラマも書き終えました」
東京映画プロデューサー高倉三郎さん
「豊田四郎さんはじめ日本のトップ監督がたくさんやってきて、森繁久彌さんを筆頭に豪華な俳優たちが共演しあう名作が作られていく、その脚本づくりを支えていったのが新井さんでした」
元テレビ朝日プロデューサー碓氷夕焼さん
「新井先生は、褒め上手な方だった。褒め殺しという言葉があるが、先生は『褒め活かし』の名手だった。挫けそうなとき、自信をなくしたとき、先生の言葉でどれだけ元気づけられ元気がでたことだろうか」
脚本家 柏原寛司さん
「野球選手もボクサーも優れたコーチにめぐり合わなければ、大成することはできない。自分の名誉や金銭は二の次で、新人ライター発掘に尽力をそそいだ新井先生こそ、シナリオ界の名コーチである。」
脚本家 森治美さん
「先生から伝授されたことで何が一番かといえば『書き続ける事』の一言に集約されます。自分の駄目さを思う時いつも、その一言が蘇り、支えられました。きっと書き続けてさえいればと・・・」
脚本家 林 千代さん
「拙作のドラマが放送されると先生から暖かいご批評のハガキをいただいた。また、シナリオに行き詰ると先生を訪ねた。適切なアドバイスと励ましを受けて、書く自信と意欲を取り戻すのが常だった。」
製作 西尾嘉十さん
「東京映画にシナリオ研究会ができたのは昭和39年のことである。20枚シナリオ作法はいまでこそすっかり有名になったが、実はこのときすでに始まっていたのである。
新井さんの好きさ加減は尋常ではなかった。仕事も生活も渾然一体となって、すべてがシナリオだったのである。」
脚本家・監督・シナリオ・センター講師 高山由紀子さん
「もし新井先生がいらっしゃらなかったら私はシナリオを書いてはいなかっただろう」
脚本家 田波靖男さん
「他の作家に脚本を発注する立場にいて、自分でもシナリオを書くというのは微妙なものです。ばくち打ち(脚本家)か目明し(社員)かはっきりしろと迫る作家もいました。課長、部長と会社員のステップを登りながら脚本を書きまくっているピンさん(新井の呼び名)の姿は無言の励ましでした。」
脚本家・小説家 渡邊由自さん
「『もっと相手の身になって教えなければだめだよ』『でも、幾度も同じこと繰り返していると、いらいらして』と僕」
監督 木下亮さん
「『ハロー、ハロー、グッドモーニング、エブリボディ』殊更なジャパン英語。同期の活躍を思うにつけ、あせりにあせった僕を明るく励ましてくれたのはあの朝の声だった。そして、現役脚本家としてバリバリ働いておられた新井さんから、何かと吸収させていただいた。」
構成作家・演出家 床波ヒロ子さん
「新井先生が構成作家デビューして間もない私について『いつも頑張っていたっけ』というタイトルでコメントをくださった。その文章が今でも私の心の大きな支えになっている」
プロデューサー 杉崎隆行さん
「君ねえ、映画を創りたいならシナリオを読めなくちゃいけないよ、シナリオ、その一言でシナリオ基礎講座に飛び入り参加したのだった。」
東宝テレビ部 砂原博康さん
「先生の凄さは、自分のペンを措いて新人指導にあたられたことにある。徒弟修業を否定し、技法伝習のシステムを工夫された。」
東阪企画専務 大下晴義さん
「大家の脚本に『面白くない何とかならないのか』との要求に対して、ゴーストライターとしてものすごい速さで手を入れていかれる姿を何度も見ております。」
プロデューサー・演出家 大山勝美
「シナリオは厄介である。ストーリーや人物設定、キャラクター、構成、そしてほとんどをイキイキとした会話でつづっていかなければならない。先生は、それをまず20枚シナリオを手がける入門法を発案され、めざましい効果を上げられた。碧眼というほかない。」
シナリオ・センター講師 河合雅子さん
「初めて先生とお会いしたのは15歳の夏、以来、娘のように可愛がっていただき、私も師と仰ぎ、父と慕わせていただいておりました。講師をさせていただくようになってからは講座の前には必ず「がんばれよ」と笑顔で声をかけてくださいました。」
シナリオ・センター講師 原島将郎さん
「つまらないという思い込みがあったのでしょう。面白いところを探すことができませんでした。新井先生がみえ『どうしても探そうという気がないから見つからないんだよ』といわれ、その気でみたらたくさんみつかりました。どうしても良いところを探す気持ち、センターのゼミで作品と接するとき、この言葉が蘇ります」
シナリオ・センター講師 樋口 利さん
「ストーリーとドラマの区別ができず頭の中がゴチャ混ぜの生徒に『オテンテンを狙うのは論文、ドラマはハート、つまり胸を打たなければ駄目。』生徒一同フムフム」