シナリオ・センターの代表・小林幸恵が、出身ライターの活躍や業界動向から感じたことなど、2006年からほぼ毎日更新している日記です。
シナリオ・センター代表の小林です。猛暑、東京での猛暑記録を更新したそうです。連続35度越え5日間・・・私も、今までタブーにしていたノースリーブを着て、街を歩いてしまった・・・振袖二の腕を出すのは失礼とは思いつつ、もう我慢の限界。
明日も続くようですが、みなさま、くれぐれも体調管理を。
心が熱くなる本を読ませていただきました。
横浜教室からこの本をお書きになるために現在一の会に所属していらっしゃる稲垣麻由美さんが、素晴らしい本をお出しになりました。
「戦地で生きる支えとなった115通の恋文」(扶桑社刊)
山田しずゑさんの長女喜久代さんから託された恋文を、時代背景や解説を入れて稲垣麻由美さんがまとめられたのです。大変なご努力だったと思います。
この恋文というのは、激戦の地フィリピンミンダナオ島で「ミンタルの虎」と呼ばれた勇将山田藤栄さんの奥様しずゑさんが、1937年から38年まで戦地の夫へ送られたお手紙です。
結婚してまもなく徴兵された夫へだされた恋文ともいえる熱い想いと寂しさがにじむお手紙が115通。
それを夫である山田藤栄さんは、「故郷乃思出 山田龍峯」と表紙を付けて麻糸で綴じて、1946年に復員されたとき持ち帰ってきたのだそうです。
リュックにあったのは、この綴じた手紙と干しブドウと氷砂糖が少々のみ。
しずゑさんのお手紙には
「本当に私はお父ちゃん(ご主人のこと)なしでは生きていかれない」
「今もお父ちゃんの写真の前で、お父ちゃんの目の前で手紙を書いておりますの」
「貴方を知った自分の昔のことなど思はれてきては、一人熱いものが流れてきてどうすることもできません」
「お父様がお召しになっていた服を身に着けてみました」
「夜中に起きて、君なつかしさの余りペンを走らせました」
「喜久代ちゃんは可愛くてしかたありません。私を見ると喜んでね。お父様によく似た笑ひ顔です」
「お父ちゃんのお心だけで何もいらない。元気なお体さへもって帰ってきてくれれば静江は満足です」
一人で出産し、子供を育てながら、夫の帰りを待つたくさんの想いの丈が書かれています。
山田藤栄さんは、1944年1152人の部下を抱える大隊長になり、ミンダナオ島で戦います。終戦の時生存者はわずか165人でした。
ほとんど兵隊が戦死というより餓死で亡くなったと言われる悲惨な戦地の中で、生き延びられたのは、このしずゑさんのお手紙があったからなのでしょうか。
それにしても、この手紙をよく持ち帰れたものだと、奇跡のように思います。
それは、山田さんにとっての命だったのかもしれないとこの本を読ませていただいて思いました。
お帰りになってから亡くなるまで、山田さんは、戦争のことについては一切ご家族に語らなかったそうです。
ですが、晩年認知症になられてからは、オイオイ泣きながら小鳥の死がいや石ころや人の汚物など拾っては、持ち帰られたそうです。
たくさんの部下の遺骨さえ持って帰れなかった。悲惨な死に目をたくさんたくさんみていらしたからでしょうか。
勇猛果敢で部下にも戦地の住民にも慕われて「ミンタルの虎」とまでよばれていた山田さんですら、誰にも語れない心の闇を抱えたまま、生き続けなければいけなかった・・・それが戦争なのだと思いました。
戦争のことや原爆のことを語らない方はたくさんいらっしゃいます。語らないのではなく語れないのだと・・・どれほどの想い、重荷を背負ったまま70年生きてこられたのかと・・・私には想像もできません。
私の叔父も南方で散りました。遺骨は帰ってきません。
必死で一人で3人の子供を育てた叔母は、95歳で亡くなるまで、靖国神社には一度たりとも足を向けたことはありません。
戦後いとこたちも片親だということで、世間から様々な辛い思いをさせられました。国の命令で死んだ兵士の遺族なのにです。
デモをしている学生たちを「戦争に行くのを嫌がるなんて利己的だ」とおっしゃった衆議院議員がいらっしゃるというニュースを見ました。なんて、悲しい方なのでしょうか。
どうぞ、ご本人がまず前線へ行ってください。
そうすれば、この「115通の恋文」の痛みが、こうした人々がどのくらいたくさんいらっしゃるのか、どんなものかを想像できるようになると思いますが。
この本を、是非ともお上の皆々様に読んでいただきたいと心から思います。