シナリオ・センターの代表・小林幸恵が、出身ライターの活躍や業界動向から感じたことなど、2006年からほぼ毎日更新している日記です。
シナリオ・センター代表の小林です。チリでまた大きな地震が。地球規模で天が怒っているようにしか思えませんが、怒るところを間違えているような気がします。辛い思いをするのはいつも下々です。
新井一がシナリオ・センターを創立しようと思った動機は、生誕百年ということもあって、ちょくちょくお話しさせていただいていますが、先の戦争への反省から、日本人一人ひとりが、想像し、考え、想いを表現できるようにならなければいけないと思ったからです。
そして、その技術を身につける一番いい術が、シナリオを書くことだと思ったからです。
自分の頭で考え、心で感じて、自分の想いを表現できることは、当たり前のようですが、簡単ではありません。
特に日本人の性格として、表現することは上手ではありません。
また、言いたいだけ言うのでは誰にも伝わりません。
自分以外は、みんなそれぞれ違うのですから、相手のことを想像し、どのように話せばいいのか、どうしたら伝わるのかを考える必要があります。
自分の考えと相手の考えがぶつかることの方が世の中は多いことでしょう。
相手の事情や背景を想像することで、表現の仕方はまったく変わっていきます。正解はないのですから。
シナリオがすばらしいのは、他人のことを考えなければ、ドラマが創れないことです。「私はこう思います!!」ばかりではドラマは成り立ちません。
ドラマは、葛藤、対立、相克です。
登場人物が10人いたら10人の背景事情を創り、キャラクターを作らなくてはいけません。
ドラマの肝である対立を描くなら、賛成も反対も同じだけの重さでなければ、緊迫した対立になりません。
同じ重さでなければ、人は葛藤、相克しません。
シナリオを描くことで、自然と自分だけの想いや考えだけでは描けないことがわかり、視野が広がり、他人の話を聴くようになります。
シナリオライターのバランス感覚はこうして養われます。
昨日お話した、「真珠の首飾り」はGHQ側を描いたものですが、ジェームス三木さんは、同じ憲法の話を「憲法はまだか」で日本側を描いています。どちらから描くかで視点は変わり、見せ方も変わりますね。
どちらの視点ももてる、だから、三木さんの脚本は深いのだと思います。
先日の公聴会での大学生の奥田さんは、まさに新井が望んでいた素晴らしいバランス感覚をもち、しっかりと自分の言葉で表現できる方でした。
彼は、何度も言います。「私たちはこの国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え立ちあがっているのです」と。
たしかに、私たちが経験した学生でデモとは全く違います。彼に扇動されているわけでもありません。
老若男女、子連れの母親が、杖を突いたご老人が、会社帰りのサラリーマン、OLがバラバラに集まり、それぞれがそれぞれ違う想いで声を上げています。
「どうか、どうか政治家の先生たちも個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、たった一人の「個」であってください。自分の信じる正しさに向い、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください。」奥田さんは訴えました。
残念ながら多くの国民が自分で考え、個人個人が立ちあがったにもかかわらず、国会審議を見ていると、議員一人一人が自分の頭で考えているとは到底見えません。
奥田さんの言葉を、多くの個の言葉を、どれだけ感じてくれたのでしょうか。
大学生の奥田さんに指摘されるまでもなく、国を揺るがす法案を審議しているにもかかわらず、平気で居眠りできる議員たちに、私たちは国の舵をとらせているのかと思うと、もはや日本丸が沈没してしまうのは目の当たりだと思えてなりません。
だからと言って、個で考えること、表現することをやめていけないと強く強く思います。絶望から希望は生まれるのですから。想像の力を、考える力を持つ若者たちに新井が天国からバックアップしてくることを願ってやみません。