しゃれおつなお店や人々が行きかう街、表参道。そこで働くシナリオ・センタースタッフの見たもの触れたものをご紹介します。
新年一発目の突撃講師インタビューは、講師ではなく、シナリオ・センターの小林代表をターゲットにしてみました。親子対談になるので、全く気乗りはしませんでしたが、ここらで取り上げとこうかということになりまして…ノッていないシナリオ・センターの新井です。
とは言え、節目の年であった2015年を経て、2016年を迎えるにあたって、きちんと足元も見つめようということで、代表からシナリオ・センターの設立経緯などを聞いてみました。
うっすらとは知っていましたが、創立から27年間の累積赤字が、いまだにあるそうですよ。おじいちゃん、何やってんのよっていう感じで、インタビューの始まりです。前後編でお送りします。 ⇒後編はこちらから
好きで教える分には良かったんですけどね。それを本業にして教えるっていうのはねぇ…。実際にシナリオ・センター経営は…創立から27年間大赤字でしたからねぇ。今でも累積は残っていますよ。 |
新井 | 「新井一」はシナリオ・センターの創立者でもあり、僕の祖父でもあるわけだけど、シナリオ・センターが創立した1970年は生まれてないし、結構知らないことも多いわけです。 |
小林 | うーん、どんなって言われてもねぇ(笑)。 |
新井 | まぁ自分の父親のこと語るってなかなかね(笑)。 |
小林 | そうね。もともとは家業を継いで理容師になるはずだったから。理容学校の先生をやったり、魚河岸で働いたり、東京映画の企画本部長になって、シナリオ・センターを創設して…。 ※東京映画…東宝の小会社として設立。「駅前シリーズ」等の映画を制作していた。 |
新井 | 紆余曲折が、もう。 |
小林 | (笑)。過去は振り返らず、とにかく前を見ている人だったから。私も昔の話はほとんど聞いたことないのよね。 |
新井 | そもそもどうしてシナリオを教えようと思ったんですかね? |
小林 | 理容学校の先生をやっていたくらいだから、先生をやることが好きなんじゃない? |
新井 | それだけ? |
小林 | そうね(笑)。…最初はシナリオを書ける人が少なかったことから始まっていると思います。東京映画の企画部長をやりながら、ほとんどすべての脚本を新井一が書いていたんです。 |
新井 | それ、聞いたことある。バケツ何杯にもなったってやつでしょ? |
小林 | そうそう。 |
新井 | 月に!? |
小林 | (笑)。流石に、もっとシナリオが分かる人がいないと困ると思ったんでしょうね。 |
新井 | なるほどね。教え始めたのは「シナリオが書ける人がもっと必要」、「皆がシナリオが読めないと良い作品が作れない」っていう、二つがあったというわけですね。 |
小林 | 「20枚シナリオ」だったみたい。 |
新井 | その頃から「20枚シナリオ」を教えていたとは… |
小林 | 「シナリオを読めるようになるには、自分が書いてはじめて分かる」と思っていたんでしょう。 |
新井 | だから代表はよく、プロデューサーにも「シナリオを書け、書け」っていうのね。 |
小林 | そうね。ホント、書いてほしい。本打ちの質が絶対上がるもの。 |
新井 | ああ、なるほどね、企画部長として、読み手でもあるわけだから。 |
小林 | だから、自分の脚本家としての経験と、企画部長としての「直し」と「教える」ことから、上手い、下手、間違えやすいポイントを分析して、統計をとったんだろうと思います。 |
新井 | なるほどね。正直言って『シナリオの基礎技術』を読むまでは、おじいちゃんの凄さってわからなかったけど、読んだ瞬間に思ったもの。「すごい!って」。だって、感覚的なことを、これほど言語化できるって、相当だろうと。 |
小林 | いや、全く(笑)。 |
新井 | えぇ~パーティーはうれしいけど、反応は薄かったんだ! |
小林 | 業界では脚本家はごまんといたから。シナリオを教えて、脚本が書ける人を育てようなんて人はまずいなかったでしょう。それに当時シナリオを教えると言えば、内弟子制度でしたしね。 |
新井 | へぇ。内弟子って落語家の修行みたいな? |
小林 | 似ているかもしれないね。先生の代わりに清書したり、家の掃除、子守とかさせたりして、シナリオを教えない。いわば盗むのね。勉強法といったら、映画館に行ってひたすら書き起こすってことくらいだったと思います。 |
新井 | 確かに勉強にはなるかもしれないけど、効率はあんまり・・・ |
小林 | でも、みんなそうやって勉強していたわけです。新井一は「それでは意味がない」と思ったんでしょうね。 |
新井 | それで1970年にシナリオ・センターをついに創立したんだ。 |
小林 | いや、最初から確信をもっていましたよ。 |
新井 | 確かにそれは最初から確信がないと言えないセリフだね。 |
小林 | …だけど、もしも東宝の重役になっていたら、シナリオ・センターを始めなかったかもしれないです。そんな話を弟子だった亡くなった原島先生から聞いたことがありますね。 |
新井 | え?どういうこと? |
小林 | 私も新井一から直接は聞いたことがないけど…。 退職金以外に2年間くらい給料が支払われていたのよ。だから、「何か」あったんだろうけど。シナリオ・センターで稼がなくても生活することが出来ましたからね。 |
新井 | それは何だろう? 会社内で権力争いとかしていたのかな? |
小林 | 東宝の企画部長の時に、ほとんど全作品に携わっていたわけじゃない。 |
新井 | だったら、もうやりたい事やる、「シナリオ界を席巻しよう」と。 |
小林 | そこからが、まあ大変(笑)。退職金は全部つぎ込みましたから。 |
新井 | やっちゃうんだね(笑)。 |
小林 | そうです(笑)。好きで教える分には良かったんですけどね。それを本業にして教えるっていうのはねぇ…。実際にシナリオ・センター経営は…創立から27年間大赤字でしたからねぇ。今でも累積は残っていますよ。 |
新井 | おぉうぅ…27年… |
情熱はあった。でもお金はなくなった。そんな大赤字から始まったシナリオ・センター。45年のうち27年間もずっと赤字だったんです。後編は、さらに壮絶な27年間が語られますよ。もうね、同じ立場にはなりたくないと、心の底から思いました。そんな代表インタビューの後編もお楽しみに!シナリオ・センターの新井でした。