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小説を書くなら押えたい…比喩表現の注意点

「シナリオのテクニック・手法を身につけると小説だって書ける!」というおいしい話を、脚本家・作家であるシナリオ・センター講師柏田道夫の『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(「月刊シナリオ教室」)から紹介。
今回は、比喩表現の注意点について。比喩は下手に使うと作品を台無しにする恐れがあります。その理由と、どういった点に注意すべきかをご紹介します。

「比喩」はここぞというとき以外は使わない

小説の文章表現のひとつ、「比喩」について考察します。

「比喩」のそもそもの意味はお分かりでしょうね。ひとつの物事であったり状態や様相、心理などを、別の何か、物事に喩えて表現する。

比喩も詳しくは「直喩」や「隠喩」「諷喩」あるいは「擬人法」といった表現も比喩の一種で、それぞれ微妙な違いがあります。それらを述べても誌面を費やすだけなので、興味のある方は調べてみて下さい。

要するに何かに「喩(例)える」。「〜のような」とか「まるで〜みたいな」といった表現を使うことです。

比喩は、“書き手の腕、表現力の差が出る”、あるいは“「映像イメージ」が善し悪しを左右する最も高度な文章表現方法”です。

実際、下手に使うとその作品を台無しにする恐れもあります。

例えば中条省平著『小説家になる!』(メタローグ)には、“比喩、「……のように」というのは、ここぞというときにしか出さないでください。(略)「玉を転がすような声」とか、月並みになってしまった比喩を逆手に取って使うのは構わないけれども、基本的に比喩は乱用してはいけない。”と書かれています。

そうなのです。
比喩はやたらと使うと失敗します。特にここで書かれているような“月並みな”使い方をすると、小説としての評価がどんどん低下します。

それもいわゆる慣用句的な比喩表現を極力使わないようにしましょう。ちなみに慣用句が(さらには常套句も)すべてダメという意味ではありません。

慣用句を便利な比喩表現として使わない

我々の生活の中でごく当たり前に使われている用語を、駆使するのは何ら問題ありません。

例えば、「その結果に涙を飲んだ」「薄氷を踏む思いだった」「今日は虫の居所が悪い」「成し遂げるために骨を折った」「身を粉にして働いた」「藁をもすがる思いだった」といったような。

問題は便利な比喩表現として慣用句を使ってしまうこと。

上記の「玉を転がすような声」以外でも、「彼女はカモシカのような脚をしていた」「水のしたたるようないい女だった」「鳩が豆鉄砲をくらったような顔」「男の人生は茨の道だった」「海岸は芋を洗うようなありさまで」「二人の間にはいつの間にか秋風が立っていた」「爪に火をともすような暮らしだった」「孫の可愛さは眼に入れても痛くないほどだった」「走馬灯のように脳裏を過ぎていった」……

これらが巧みな(それも映像を思い浮かべさせる)比喩表現になっていることがお分かりでしょうか。ゆえに慣用句として定着したとも言えるわけです。

特に非常によく目にするし、我々も便利なのでつい使ってしまう「走馬灯のように」という表現を、最初に生み出した書き手は素晴らしい。

でもゆえにですが、こうした「月並み」な、それこそ「手垢のついた」慣用句的比喩を、文章を駆使することで、より創造的な世界を築こうと思っている書き手は極力使わないように心がけるべきです。

ところで、比喩表現の巧者というと、私は真っ先に村上春樹が浮かびます。

ノーベル賞発表の時期になると、(本人の意図に反して)話題となる現役の日本人作家の第一人者ですが、熱烈なファン(いわゆるハルキスト)がいる反面、嫌いだという人も多い。

私は(ハルキストではありませんが)愛読者の一人です。

で、物語なり春樹ワールドを楽しむだけでなく、常に村上春樹の文章、それも独特の比喩表現の巧みさに感心しています。それを読みたくて(見つけたくて)、新刊が出ると買ってしまうくらいです。

で、村上春樹の小説には、上記のような慣用句、常套句的な比喩表現は(私が記憶する限り)一切、一言も使われていません。

出典:柏田道夫 著『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(月刊シナリオ教室2017年4月号)より

※シナリオ・センターの書籍についてはこちらからご覧ください。 

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