「シナリオのテクニック・手法を身につけると小説だって書ける!」というおいしい話を、脚本家・作家であるシナリオ・センター講師柏田道夫の『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(「月刊シナリオ教室」)からご紹介。
「視点って何?」という小説初心者の方も参考にしてください。「ミステリーを書くときだけでなく、その他のジャンルであっても注意して下さい!」というお話をご紹介。
ミステリーの神視点はNG?
小説を書く際の「人称」について。三人称に入る前に、神視点について考察しています。
作者(神)が客観的にその場面の状況や、各人物の描写や心理まで描いてしまう手法がいわゆる神視点で、三人称多視点的表現でもあります。
シナリオは原則的に三人称多視点表現です。ただし、表現方法がという意味で、中心となって物語を運ぶのは主人公でなくてはいけません。それはシナリオも小説も同じ。
ただ、シナリオを書いていた人が小説を書こうとして、シナリオと同じ感覚で、神視点で書いてしまい、それが小説の新人賞とかの場合に欠点とされたりする。
あるいは実際に神視点癖が抜けない、もしくは視点のとらえ方を理解しないままで書いていて、「小説になっていない」と見なされることもあります。
前回、大沢在昌著『小説講座 売れる作家の全技術』(角川書店)の「もしも私が新人賞の選考委員なら、神視点の作品はすべて落選にします。」という著者のコメントをご紹介し、これはミステリーの場合という但し書きを加えました。
簡単に補足しておくと、ミステリーというジャンルは、何らかの謎を読者、ないし犯人以外の登場人物たちに提示して、その解答を終盤で明らかにする、という基本構造があるためです。
例えば、殺人事件が起き、探偵役の主人公が謎を解いていくとします。3人の容疑者の中に真犯人がいる。
この場合、視点者である探偵が、事件の現場にやってきて、現場の状況を見て、容疑者たちに接触して真犯人を割り出していくという構造となります。読者は探偵の視点になって真相を追いかけられる。
これが(全部を知っている)神視点で書かれると、読者もその目線になりますし、そこで真犯人心理だけ隠すとすると、アンフェアな描き方になってしまいます。
三人称多視点だと誰に感情移入していいか分からなくなることも
ミステリーではないジャンルであっても、三人称多視点で書かれていると、読者は誰に感情移入していいか分からないまま読むことになり、混乱させてしまう恐れが多くなります。
例えば、
【佐倉に連れてこられたバーの空気に真美は圧倒されていた。半裸の女と男がステージで絡み合っていて、男ばかりではない、真美と同じくらいの年の女までが嬌声をあげている。真美は帰りたいと思ったが、佐倉はそんな生やさしい男ではなかった。そうはさせるものかとほくそ笑み、女の手を離そうとしない。】
一読すると問題がないように思えるかもしれませんが、同じセンテンスの中で、真美視点と佐倉視点が混在してしまっている。
真美視点で通すなら、後ろの文は“真美は帰りたいと思ったが、佐倉が手を離してくれない。そんな生やさしい男ではなかったようだ。真美を見てほくそ笑んでいる。”といった書き方にしなくてはいけない。
もちろん多視点が絶対ダメということでもなく、読者に視点者が変わったと分かる書き方になればいい。
同じセンテンスの中で視点を混在させるからややこしくなるのであって、真美の視点で描いた後で、段落を変える、できれば行を一行空けるなどしてから、佐倉視点に変わったという書き方にする。
ただし、これも問題があって、数行ごとに視点者がコロコロ変わったりすると、読者はやはり誰にも感情移入できなくて、あらすじ的に起きていることだけを追いかける印象となったりします。
この「あらすじ的小説」というのも、シナリオから小説に移行しようとする人に見られがちな欠点のひとつです。
出典:柏田道夫 著『シナリオ技術(スキル)で小説を書こう!』(月刊シナリオ教室2015年2月号)より
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