自分大好き小説 にしないために
小説を書こうとする際に、一人称か三人称かの選択をします。
「私は」「ボクは」といった一人称だと、原則として、物語の中に常に私がいなくてはいけませんし、私が見たことや心理しか書いてはいけない。私以外の人物の心理は見えないので書けません。「真美は」「佐倉は」といった三人称の場合は、三人称一視点が原則とされます。
で、前回まで一人称で書かれていた“私”を、三人称の例えば“真美”に置きかえればOKかというと、そうとも限らず、微妙なニュアンスが違ってくると述べました。
これをもう少し簡単な例で示すと、“真美は美人だ。”というのを、“私は美人だ。”とするとどうでしょう?
三人称の場合は、読者は「そうなんだ」と思うだけですが、一人称だと「ほんと?」「こいつ自意識過剰なんじゃない?」と思うかもしれません。この差が両者の違いです
三人称一視点についてまとめる前に、もうちょっと一人称小説について述べておきます。
というのは、数ヶ月前までに連載を持っていた『公募ガイド』誌では、1000字というショート小説を読者に提出してもらっていました。こうした短い小説は一人称が書きやすいのか、全体の7~8割を占めていました。
小説としての完成度の高い作品ももちろんありましたが、多くの一人称小説がエッセイのようでした。
書き手が「私」なり「俺」とかになって、日常の体験や感慨、思いが綿々と綴ってある。そうした作品はエッセイとかならば、いわゆる「いい話だね」なのですが、小説としては物足りない。
結局、上記のような書き手の「自意識過剰」、もしくは「自分大好き」物語になっていて、読み手の私としては正直うんざりさせられました。
たまたま小説コンクールの下読みをしていた人たちと話したら、「純文学系とかはそんなのばっかりですよ。私はこんなに有能なのにひどい目ばっかり遭っていて理不尽だ、みたいな」「それと、こんな美しい体験をして、心が洗われた。人生は素晴らしい、とかもあるよ」ともう一人。
笑い話ではなく、こうした印象の小説(実はシナリオも)が近ごろ多い気がします。