小説を書くとき 三人称一視点を勧める理由
なぜ三人称でも一視点とすべきなのか?
小説の多く、特にエンターテイメント系の小説の場合は、三人称で書かれることが多い。私小説などを含む純文学系は、短編で書かれることが多いせいもあって、一人称が使われる割合が増えてきます。
一人称は“私”といった主人公の視点なり思考が動かせませんので、その人物の行動のみで物語を展開させなくてはいけないために、短編が向いています。もちろん一人称であっても、章を変えるタイミングとかで、人称であったり語り手を変えるという手法を使う場合もあります。
三人称は基本的に“真美は”とか“佐倉は”というように、登場人物の名前で物語を展開させていく。で、これもいわゆるシナリオ手法的な「三人称多視点」で書く場合と、一人称手法に近い「三人称一視点」に大別できます。
で、これまでも述べてきたように、近年の小説コンクール(特にエンタメ系の)などでは「三人称多視点」だとマイナス点がつけられるようになっています。
真美はスカウトマンの佐倉に、渋谷の雑居ビルに連れて行かれた。
ドアに「六本木芸能社・渋谷支局」と看板があって、壁には女性モデルのポスターが貼られている。
———あれ、この子ギャル雑誌に出てた?
じっと眺めていると、
「知ってる? 弥生みいなちゃん。うちの看板モデル」
真美の不安を逆手にとって、佐倉が得意の口説き文句を並べた。
———この子はチョロそうだ。三日で落とせる。
佐倉は心の中でほくそ笑んだ。
例えばこうした書き方が三人称多視点で、真美と佐倉の視点が混在しています。間違いではないし、こうした手法で書かれたプロの作品もあります。
ですが「三人称一視点」と作者が決めた場合は、視点を混在させずに書かなくてはいけなくなります。真美を視点者としたなら、「知ってる? 青山みいなちゃん。うちの看板モデル」という佐倉のセリフ以後を例えば、
後ろから佐倉が得意そうに言う。真美の不安を逆手にとろうとしているのか、スカウトマンの余裕なのか……
———この子はチョロそうだ。三日で落とせる。
なんて思っているに違いない。
というような書き方になります。