金王八幡宮
シナリオ・センター代表の小林です。昨日、氏神様の金王八幡宮へ初詣に行きました。
例年事務局一同でお伺いするのですが、年明け早々、機械トラブルが続出したため、私と新井の二人が代表してでかけました。
神社の外まで参拝の方々がずらーっと並んでおり、いつも人が並んでいるのを見たことがなかったのでびっくり。
ちょうど仕事始めということもあったかもしれませんが、企業の方から若者まで多様で、どなたも並んでまでお参りしたいというのは、先行きのみえない不安があるせいなのではと思いました。
私もしっかりと災いのない安心して過ごせる年でありますことをお願いしてまいりました。
お伺いできなかった事務局のためには開運守りを全員にいただいてきました。
八幡様には子守りというお守りもあり、子持ちのスタッフには子守りもいただきました。
子どもがすくすくと育ち、安心して生きていける世の中にすることが大人の務めだと思うのです。
そんな願いがきちんと実行できるようにしなくてはと心新たに思いました。
私たちの力は小さいものですが、人と人とのつながり、想像力を広げるためにも、小学生から大人の方まで広くシナリオを描いていただけるよう頑張りたいと思っています。
対話
昨年の暮れ、スポーツ界の不祥事に端を発して「災いを防ぐ対話の可能性」という新聞記事が載っていました。その記事の例の中に哲学者の鷲田清一さんの文章が引用されていました。
私たちは、コミュニケーションというとお互いを理解し合うものだと思いがちです。
鷲田先生は対話の意味をこう書かれています。
「人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外のあいだには、どれほど声を、身振りを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうことがある。
<対話>は、そのような共通の足場をもたない者のあいだで、たがいにわかり合おうとして試みられる。
その時、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わった時『ともにいられる』場所は閉じられる。
けれども、理解し合えなくて当たり前だという前提に立てば『ともにいられる』場所はもう少し開かれる。
対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語り合えば語り合うほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること、それが対話だ。
『分かり合えない』『伝わらない』という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。」
私も鷲田先生と同じように思っており、シナリオを書く上でも、他人(ひと)は皆違うということを認識すること、違うことが大事なのだということを常に受講生の皆さんに申し上げています。
シナリオは「伝える力」です。
何故かといえば俯瞰で創るものだからです。主人公が葛藤するからこそドラマになるからです。そこに対立があるからドラマチックになるのです。
誰一人同じ人はいないということは、誰一人同じ考えや気持ちではないということです。その上で、お互いを尊重し合い、人の話に真摯に耳を傾けることでコミュニケーションは生まれるのです。
お正月「嘘つきは戦争の始まり」「敵は嘘」という企業広告を宝島社が大々的に新聞掲載され、話題になっています。
対話がなければ、このようなことが起こりうる、いえ、まさに起きているからこその広告だったのでしょう。
今年、私たちがどれだけお互いに違いをしっかりと見つめて、お互いの話に耳を傾けることができるか、正念場の年かもしれません。
私たちは、シナリオを通して、ドラマを通して、違うことを敵対視しないで、人と人のあいだは違うからこそ面白い、だからこそ発展していくのだということを伝えていきたいと思います。