-柏田道夫の「映画のここを見ろ!」その15-
『ホテル・ムンバイ』丸ごと「サスペンス」で展開していく「集団群像劇」
今年の「テレビ朝日新人シナリオ大賞」(11/18〆切)テレビドラマ部門の課題が「サスペンス」です(配信部門は「25才」)。“テーマの解釈は自由です”という但し書きがあるのですが、「サスペンス」とは?とハタと立ち止まる人がそれなりにいるようです。
訳すと「緊張、宙ぶらりん状態」とかで、要するにハラハラドキドキさせるテイストのジャンルのこと。ですが、大きなくくりとして「ミステリー」があって、サスペンスもこの中に入っていたり、近いジャンルとしては「スリラー」とか「ホラー」もあります。どう違うのか?
「ホラー」は明らかに〝恐怖〟がメインで、いかに怖がらせるか?
超常現象の幽霊とかゾンビとか怪物、殺人鬼が襲ってきたりする。当然ハラハラさせるのでサスペンスといえなくもない。ホラーの中には「サイコサスペンス」もあります。
また“スリルとサスペンス”という言い方もあって、この両語は同義ととらえてよく、「スリラー」もサスペンスともいえます。つまり、それらに厳密な定義はなく、互いに要素が被っていると考えていい。
せっかくなので、どう「サスペンス」を捕らえ、どう追求すると、おもしろいサスペンスものにもっていけるか?あれこれ作品を通して考察してみます。
まず今回は、公開されたばかりの『ホテル・ムンバイ』。2008年にインドの都市ムンバイで、実際に起きたテロ事件を描いています。険悪だった印パ関係により、10人の若いテロリストがムンバイのあちこちで銃を乱射、爆弾を爆発させ多くの犠牲者を出した。その中で、高級ホテルのタージマハル・ホテルが襲撃され、3日間にも及んだ攻防戦を描いています。
実際に起きた事件を元にしているし、今回のテレ朝のコンクールでは直接的には参考にあまりならないかもしれません。
ただ、最初から最後まで、全編丸ごと「サスペンス」。テロリストたちが襲うまでの冒頭部から、緊張感が緩むことは皆無でありながら、見事に人物たちのドラマまで描いていて感動させます。
で、前回紹介した『アド・アストラ』が、ブラピ扮する宇宙飛行士ロイの一人称的作りだったのに対して、本作は「集団群像劇」的な作りになっています。群像劇を描くための手法として、最も有効なのは「グランドホテル」形式ですが、これはかなり熟練の腕が必要となります。
ともあれ、物語となる空間を(ある程度)限定して、その中から出られない複数の人物たちを描く。テロリストに襲われて限られたタージマハル・ホテル内がその限定空間です。
そこで、ホテルの給仕係のアルジュン、アメリカ人の夫とイラン人の富豪の妻、この2人の赤ちゃんのシッター、料理長、謎のロシア人……さらにテロリスト側の少年1人も。
こうした主要人物が生きるために必死に戦う、愛する人を守り、客たちを救い、逃れようとする。各人たちのドラマを分散させずに、絡ませながらシーンをたたみかけていく。
サスペンス要素としては、とにかく武器を持たない彼らは、マシンガンや手榴弾で武装したテロリストたちと遭遇すれば、たちまち撃ち殺されてしまう。こんなにシンプルなサスペンス構造はありません。
例えば、最初にクローズアップされるアンジュン(『スラムドッグ$ミリオネア』や『LION/ライオン~25年後のただいま~』のデヴ・パテル)の家族、それから靴であったり、ターバンといったディテールで、彼の人物像を観客にインプットさせています。他の人物たちも同様に描き分けています。
群像劇でも、一人一人の人物を立体化させる手法を駆使しながら、サスペンスを盛り上げていく。『アド・アストラ』とは対照的な構造、手法を観て下さい。
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【公式】『ホテル・ムンバイ』9.27(金)公開 /本予告
-柏田道夫の「映画のここを見ろ!」その16-
『ジョーカー』“一人称的手法”で描かれる逆サクセスストーリー
先週末の公開映画で、堂々の興収第1位だったとかで、とても驚いています。いわゆるアメリカンコミックで、おなじみキャラ『ジョーカー』の物語だから?
ご存じのように、正義のヒーロー、バッドマンの宿敵として、今までいろいろな俳優に演じられてきた悪役キャラです。
映画ファンの記憶に刻まれているのは、ジャック・ニコルソン(89年・ティム・バートン版)と、遺作となってバットマンの存在も薄くした『ダークナイト』のヒース・レジャー(08年・クリストファー・ノーラン版)でしょう。
で新に、強烈なジョーカー像を生み出したのが今回のホアキン・フェニックス。来年のアカデミー男優賞最右力とされるのも納得でした。
でも、この映画はいわゆるヒーローものとは違って、むしろ正反対にベクトルが向いています。満杯の映画館で観ましたが、終わってから一種異様な空気に満ちていたように思います。
中でも、私の隣にいたカップルの若い女性が、館内が明るくなりなり放った一言が言い得て妙でした。「私、1秒も楽しめなかった!」
その通り! なのですが、これは「素晴らしい」を10コくらい並べたいほどの傑作です。必見!
さてさて、この映画の脚本(監督のトッド・フィリップスとスコット・シルバーの共同)として注目してほしいのは、次の2点です。
ひとつは、前々回の『アド・アストラ』で指摘した「一人称的手法」。
あの映画では、ブラッド・ピット扮する宇宙飛行士のロイの行動を外さないストーリー展開でした。この『ジョーカー』もまさに、ホアキン扮するアーサーの行動のみを追いかけます。つまりアーサーが最初から最後まで出ずっぱり。
述べたようにこの手法は、観客を主人公に感情移入させやすい。観客は常にアーサーと行動し、彼の目線を共有するために、例えばアーサーが街の悪ガキ連中にいじめられ、暴力を振るわれたりすることで、彼の痛みや悲哀を我がことのように感じます。
ただし、彼のいないところで何が起きているかとか、他の人物が何をしているのか、どう見ているのか、といったことが描きにくくなります。彼の妄想とかも、現実なのか否かが判別できなくなる。つまり様々な情報、背景といったことがアーサーを通してでしか伝えられない。
そうした「一人称的手法」として脚本を展開させることのメリットと難しさを、アーサーの受難に心痛めつつ、ドキドキしながら読み取って下さい。
そして、もうひとつの注目点は、「逆サクセスストーリー」としての構造。
物語のシンプルな型のひとつが「サクセスストーリー」です。『ロッキー』とか『ベストキッド』みたいなスポ根ものとか、『マイ・フェア・レディ』や『スター誕生』のように、底辺にいながらも大志を抱いた主人公が、努力を重ねて困難や挫折を乗り越えて、ついに栄光をつかみ取る。
その人物に感情移入した観客は、主人公の栄光を讃え、ヒーロー、ヒロインとして拍手を贈ります。多くの物語はこの構造に乗っかっているわけです。
ついに『ジョーカー』という悪の権化に登り詰めるアーサーも、底辺中の底辺にいて、どんどん窮地に追いやられます。彼が抱く大志は、人々を笑わせるスタンダップコメディアンになること。しかし、彼自身が負うハンデの数々に加え、次々と彼を追い詰めるトラブル、窮状で反対側へと追い詰められていく。
けれども、ゆえに逆のサクセスへと登っていくともいえる。アーサーの悲しいピエロのメイクと、笑おうと歪める顔、そして路上の階段で踊るダンス!
隣の女の子の感想「1秒も楽しめなかった!」のに、どうしてこの映画、いやホアキン・フェニックスのアーサー=ジョーカー誕生に心揺さぶられるのか?
悪は時に我々を魅了します。この物語は「一人称的手法」によって「逆サクセスストーリー」としての展開を徹底させることで、それを可能にしています。
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ワーナー ブラザース 公式チャンネル
映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開