シナリオ・センターでは、ライター志望の皆さんの“引き出し=ミソ帳”を増やすために、様々なジャンルの達人から“達人たる根っこ=基本”をお聞きする公開講座「ミソ帳倶楽部 達人の根っこ」を実施しています。そのダイジェスト版を『月刊シナリオ教室』(今回は2018年12月号)から。
今回は、現在の日本映画界・テレビドラマ界で活躍されている脚本家のおひとり、向井康介さんにお越しいただいた模様をご紹介。大阪芸術大学在学中に山下敦弘監督と自主映画を制作されたことから始まり、以来、数多くの映画やテレビドラマの脚本を手掛けていらっしゃいます。当日は、これまで執筆してきた映画を例に、脚本執筆のコツやポイント、また、小説『猫は笑ってくれない』(ポプラ社)についてもお話しいただきました。脚本家になるまでの道のり、そして、なられた後どんな風に脚本をお書きになったのか、が分かりますので、脚本家志望者は参考にしてください。
山下敦弘監督との出会いと脚本
僕は徳島県の出身です。田舎なので情報も少なくて、10代の頃は映画の話とかしたくても、映画好きな友達が回りにいなかったんですね。でも映画関係の大学に入れば、同世代の人間と映画の話ができるんじゃないかと思いました。
そこで映画を学べる大学を調べたら、2つ見つかりました。日芸の映画学科と大阪芸大の映像学科がありまして、東京に行くのは怖いし遠いということで(笑)、大阪芸大に進学しました。
映像学科には一学年150人くらいいたと思いますが、コースとかは特になく、6班くらいに分けられて、とにかく実習をしていました。好きなことを好きなようにしていいという、ざっくばらんな雰囲気でしたね。
映画の話をしたくて入った僕と違って、みんな映画を作りに来ていて、「そうか、映画って作るものなのか」と考え方を変えていきました。その班の中に山下(敦弘)君がいて、何人かで卒業制作として『どんてん生活』という映画を作りました。
当時、東京国際映画祭が年に1回、新人の映画監督やプロデューサーに奨励金を出すという企画があったんです。それに選んでもらって1千万円くらい予算が降りて、次は『ばかのハコ船』という映画を作りました。
そして『ばかのハコ船』の配給についてくれたビターズエンドという会社の社長から、「つげ義春の原作で映画を作りたい」と依頼されて作ったのが『リアリズムの宿』という作品です。僕と山下君に来た、初めての外注仕事で、これが商業映画の1本目になりました。
でも、この時は2人で映画作りをするという感じでしたね。自分も現場に出て照明部をやっていましたし……。基本、自主映画なので、自分たちで何でもやらなくちゃいけなかったわけです。
その中の1つに脚本もあって、2人で書いていたという感じでした。でもあの人はなかなか脚本を書かないんです(笑)。言ってしまいますけど、卒業制作を作ろうってなった時に、まず山下君が脚本を書くことになって、タイムリミットまで待ってたんです。
ところが一文字も書かなかった。それで「ヤバイじゃん」ってことになって、「じゃあ、どういうのがやりたいの?」って聞くと、「こういう人が出てきて……」とか山下君が話すのを、僕がまとめていくという感じでした。
大学の授業では『シナリオ創作論』というのがあって、1年次にペラ20枚の短編を書いて、2年次に60枚、3年次に90枚書くという課題がありました。4年次は、卒業論文か卒業シナリオのどちらかを書かないと卒業できないんですが、僕は一度自分のシナリオをちゃんと書きたいと思っていたので、卒業シナリオを選びました。
ペラ200枚以上という課題を、1年かけて真面目に取り組みました。自分の地元・徳島の話でした。池田町に住んでいる30過ぎの女性と15歳くらいの全盲の男子の共同生活を描いた作品でした。初めて先生について書いたシナリオで、東映の監督をしていらした中島貞夫先生に指導を受けました。
先生は東大出身で『ギリシア悲劇研究会』というのに所属されていて、そこに倉本聰さんがいて2人で脚本を書いていたということで、いろいろノウハウをお持ちでした。プロットは書かなくていいから、まずキャラクターを作ってこいと言われたり、ハコ書きを習ったりしました。書いては面接して、教わると言うよりは命令されるような感じで、どうにかシナリオを書いた記憶があります。
書き上がったあとにも面接があるんですが、中島先生になんて言われるのかなと思って行ったら、初めて褒めてもらえたんです。「向井、これ、面白いよ」って。
当時、僕は日活ロマンポルノにはまっていて、神代辰巳さんとか、田中登さんとかが書く、女性の性のようなものを書いてみたかったんです。増村保造さんの映画が好きで『盲獣』っていう映画があるんですけど、目が見えない人物が出てくるんです。目が見えないってどういうことなんだろうっていう疑問と、性とが結びつかないかなと思いながら卒業シナリオを書いたので、R 18みたいなホンになりました。
学科長賞や研究室賞という賞があったんですけど、「内容からして俺が1人で推したところで賞は取れないけど、俺は全員の中で向井の作品が1番面白いと思う、書き続けたほうがいい」と中島先生に言っていただいたことが大きかった。それで欲が出ました。卒業制作も自分が率先して書くようになったんです。
ジャンルレスでやってきた映画脚本
『リンダリンダリンダ』が終わったくらいのときに、それまでずっと続けていたアルバイトをやめることができて、どうにかこうにかホンだけを書く生活になりました。
山下君は山下君で忙しくなってきたこともあって、別の人とも組んで仕事をしたほうが、お互い成長するという話もした覚えがあります。その頃には僕も脚本家として立とうと決めていましたので、『リンダリンダリンダ』のすぐあとに、お互い別の相手と組んでやっています。
その後、僕は『俺たちに明日はないッス』や『ふがいない僕は空を見た』でタナダユキさんと、『色即ジェネレーション』で田口トモロヲさんと、いろんな監督の脚本を書くようになりました。
脚本の話をもらうのはプロデューサーからです。監督から指名があると、プロデューサーづてに連絡があって、原作を送ってみていいですかという話になります。そこに監督さんからの手紙がついていたり、もともと知っている監督さんってことももちろんあります。
引き受けるか受けないかは、基本的には順番です。この日までに書かなくてはっていうのがあることが多いですから、スケジュール的に断らなくてはならないこともあります。原作でこれやってみたいとか、やりたくないとか、ちょっとワガママを言うようになったのは、本当にここ1~2年のことです(笑)。それまでは来る仕事は拒まずに、ジャンルレスでやっていました。
山下君は色が強いせいか、それらしい企画が来ることが多いので、必然的に2人でやる時はやりやすい面はあります。『マイ・バック・ページ』は原作が川本三郎さんの大学時代の学園紛争の話で、僕や山下君はまだ生まれていない世代の話ですが、挑戦でしたね。
11月に公開される『ハード・コア』の原作は上下巻の漫画で、僕は22歳くらいの時に山下君に勧められて読みました。これは、「正義とはなんだろう」という話ですが、山下君が大好きで、僕も最高だと思いました。
僕らはこの作品だけでなく、いましろたかしさんという漫画家に、人の描き方とかとても影響を受けているところがあります。それは公言していて、『どんてん生活』とか『リンダリンダリンダ』とか、さんざん影響を受けて映画を作ってきたわけです。
そのあとに、『ハード・コア』を映像化しませんかという話が来たので、今さらこれをやるのか!という思いもありました。いわば、キリスト教徒の人が聖書を描くようなむずかしさがあったんです。
プロデューサーにも名を連ねている山田孝之君も、以前舞台化の話があって原作を読んでいたようなんです。主人公は今の日本の俳優の中では、たぶん山田君しかいないよねっていう役ですから、話が来たのはわかるんですが、スケジュールなどの事情で頓挫していました。その後、山田君と山下君で繋がりが出来て、今ならやれるかもということで出た話です。
オリジナルで作ったものでは、『もらとりあむタマ子』もあります。あの企画は前田敦子で何か1本というところからスタートした企画です。原作で来るか、俳優で来るか、その2つが多いですね。
当時、前田さんはAKBを卒業して間もなかったので、大学卒業とAKB卒業をかけて『モラトリアム』っていう発想が生まれて、大学を卒業して実家に戻っているキャラクターというのが出てきたんです。
この企画の前に芥川賞原作の『苦役列車』っていうのを山下君がやっていて、前田さんのことを人として興味を持っていたっていうのもありました。『もらとりあむタマ子』をご覧になった方はわかると思うんですが、ほとんどお話がない。
山下君の作品はドラマというよりは、その被写体がどんな状況の時に、どんな顔をするのかとか、どういう風に食べるのかとか、そういう風に1個1個、アイディアを作っていく。父と娘の2人暮らしというのも、遅れてきた反抗期みたいなのが出来るかもと入れた設定です。最後、お父さんの再婚話というのが、唯一ドラマがあるかなという感じです。
本当は何の解決もない、ダラダラした会話とかが好きで、映画を作り始めた時から、そうやって彼と試行錯誤して作ってきました。だから自分の中で山下君との映画、山下君以外の映画という分け方になっちゃうんですね。
テーマとプロット、キャラクターの関係
29歳で早逝した実在の棋士、村山聖を描いた『聖の青春』は、森義隆監督から話が来ました。ノンフィクション小説があってそれを原作にしています。自分の転機になった作品です。
聖は直球の生き方をした人です。それまで僕は変化球でしか勝負してこなかったので、違う幅が出るんじゃないかなと思って引き受けました。ですが結果7年かかりました。
何稿だったか詳細は忘れましたが、20稿以上は書いたと思います。森監督は、この映画のテーマはこうなんだみたいに最初から決めるタイプの人でした。それまでそういう作り方をしたことがなかったので、『このテーマはこうだから、彼はこう動くんだ』って言われて、ああ、そうなんだと。
打ち合わせでは言い合ったりもして、僕が書いた中で、芯が太くて、すべてが説明できる隙間のない脚本はこれが初めてでした。これでようやく脚本というものが見えてきた部分があるかもしれません。2年前なので、実はつい最近のことなんですけど(笑)。
『愚行録』は石井慶監督とプロデューサーから話をいただいたんですが、手違いで原作がなかなか届かなくて、監督が書いた大まかな流れのほうが先に届いたんです。それを読んで、過去と現在とを工夫しなくてはと思っていたら、遅れて原作が届いた。読んだらインタビュー形式の叙述だったんです。僕はそんなことまったく思ってなくて、どうしようと思って、そこから慌てて監督とプロデューサーと改めて話を作っていきました。
昔からやってみたいジャンルではあったんですけど、初めてでした。まず原作を再構成して、大まかな流れは監督も気に入ってくれました。つめていく時に、石川さんが証言形式で、どんどんインタビューで進んでいくものだから、人対人のシーンが多くなっていくので、そこをどうにか飽きさせないようにしたいという話を監督としました。それで結構、細かいことをいろいろやりました。
例えば、殺された被害者の同僚に話を聞くときに、居酒屋で、インタビューされる側が、もらった名刺の上にビールを置いてしまう無意識の行動とか、こういうことをしたいんですよねと監督が言って。収監されている妹に手がどうのこうのっていう演劇的な部分は僕がやりたかったことで……。
そういうアイディアをお互いに出し合って進めていったので、どこまでが僕で、どこまでが監督というのはなくて。監督が言ったことでこちらが思いつくこともあって、そういう対話があるのはいいですね。
さっき言った「『ハード・コア』のテーマは正義です」みたいに、この話はこうかなって最初に大まかには決めるんですけど、書いていって見つけることのほうが多いです。いっぺん最後まで書いてみて、そこから見えてきたものを手がかりに2稿、3稿を直していく。先ほども出た『マイ・バック・ページ』も書いていくうちに変わっていった作品です。
自分もシナリオを教わっている時とかに、プロット優先にするとキャラクターが薄くなり、キャラクターを優先するとうまくいかなかったりとか試行錯誤しました。でも今思うと、どっちも必要というかね、両方に作用するので、どっちか片方だけじゃダメだし、どっちが先かでもないんですね。
ワンアイディアとか、ある事件から影響を受けて、これを書いてみたいと思った時に、どういうキャラクターがいいんだろうと。最近だと、行方不明になった子どもを見つけたボランティアのおじさんとか面白いなと思いましたけど、そのモチーフのどこに興味を持ったかというところで、プロットが先か、キャラクターが先かを決めていく気がします。
テレビドラマはセリフ
最近は『植木等とのぼせもん』などテレビの仕事もするようになりましたが、映画との一番違いを感じるのは、プロデューサーですね。考え方も全然違います。どっちがいい悪いではないんですけど。
映画の脚本の打ち合わせでつまったりすると、「もう1シーン足すか」とか、「この絵ってどうですかね」みたいな感じで話が進みます。でも、テレビで同じような提案をすると、「もう一言、セリフを足してください」みたいになります。テレビドラマはセリフなんだなと思います。
ただ連続ものの1話目や2話目は打ち合わせをしっかりやるんですけど、3話目、4話目になってくると、撮影も放送も始まっているので、だんだん打ち合わせが少なくなってきて不安になってくる。「もうちょっと、僕につきあってよ」って気になってきますね(笑)。
『植木等とのぼせもん』は、僕は植木等さんをリアルタイムで見た世代ではないですが、企画としてやりたいと思いました。戦後昭和の芸能史に興味があったので、あの時代を書けると思うと興奮して、夢中でやりました。
ただ原作が小松政夫さんの付き人時代の話を書いた本でしたので、僕としては、付き人のほうに気持ちが寄っていたんですが、植木等という存在は大きいので、もっと植木等さんに寄らないとダメと、プロデューサーから再三言われました。
でも連続を1から10までやるのが初めてだったので楽しかった。これからもテレビの仕事はやってみたいです。連続でないと出来ないこともありますから。
実際の経験も小説の形で書いてしまえばフィクション
僕が書いた小説『猫は笑ってくれない』は、主人公が脚本家ということもあって、ノンフィクションの割合はどのくらいですかという質問をもらうのですが、実際に経験したことでも、小説の形で書いてしまえばフィクションだと思うんです。
本当にあったことだとしても、脚本家の目線から書くと、自分の解釈でしかない。書くという行為は嘘なんですよ。僕もノンフィクション小説が好きでよく読むんですけど、ああいうものでも作者の目が入っていますから、100%の客観ではないんです。
なんでそんなことを言うかというと、以前、講演に行った先でお話しした方で、ディティールがとても面白い話をしてくれたのに、それを書くのは恥ずかしいとおしゃっていて、もったいないと思ったんです。書いたらフィクションにしてしまえるのに。フィクションと経験というものの距離の測り方を、もうちょっと見直してもいいのかなって思います。
僕が小説を書こうと思ったのは、2014年に文化庁の新進芸術家海外研修という形で、1年間日本を離れたことがきっかけです。国費で行くので研修中は仕事の脚本を書いたりしてはいけない。そこでその間に何か書きたい気になりました。
それまでは小説を書くのはおこがましいという気持ちがあったんですが、『文學界』に短編を書いて欲が出てきたんです。それを読んだ人に、人のことばかりじゃなくて、自分のことを書かなきゃって言われて、それでここ10年くらいで自分が見えてきた答えを、何か形にしたいと思って書き始めました。
小説と脚本の違いは、脚本はとにかく感情を「悲しい」とか「嬉しい」とか言葉で書かないということ。小説は書き始めたばかりですが、今回に限って言えば、文体を優先しました。こっちのほうが展開は面白いと思っても、今、書いた一文がよく書けていると思えば、そっちをとるみたいなことです。
編集者さんとの最初の打ち合わせでは、脚本家、映画監督、新聞記者の目線にして、3つの章立てで書いていくのはどうでしょうって話していたんです。ですが編集者さんが、「早川という脚本家の目線だけで書くほうが正直だと思います」って言われて、確かにそうかもと思って、そういう形になりました。映画だったら、もっと視点を増やせるので、映画と小説はそういうところが違いますね。
ドラマはセリフと構成
最後に皆さんに向けてのメッセージになりますが、脚本家にとっての1番はセリフです。ドラマはセリフと構成です。セリフってキャラクターも何もかも入っているので。セリフのいいドラマって、やっぱりいいんですよね。
例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「未来は自分で変えられる」っていうセリフにはテーマも出ている。決め台詞の効果もあるんですけど、普通のセリフをそのシーンでその人が言うと泣ける、みたいなセリフのほうが、僕は好きです。
「僕は死にません」とか「カンチ、セックスしよう」とか、やっぱりセリフが残っていますもんね。古いっすね、僕のたとえ(笑)。
皆さんはシナリオといってもいろんな分野を目指していらっしゃるんでしょうけど、今のうちに見られるものは見て、読めるものは読んでおくことです。僕も学生の時は結構映画を見ていて、今もその布石で仕事をしているようなところがあります。仕事を始めると見る時間がなくなっていくんですよね。
だから今のうちに浴びるように映画を見てほしい。詰め込むのって僕は悪くないと思います。1日1本見るくらいの気持ちで、いろんな作品を見てください。
〈採録★ダイジェスト〉THEミソ帳倶楽部「脚本家・向井康介さん~つい最近、脚本というものが見えてきた~」
ゲスト:向井康介さん(脚本家)
2018年9月25日採録
★次回は8月31日に更新予定です★
プロフィール:向井康介(むかい・こうすけ)
1977年生まれ。徳島県出身。脚本を手掛けた主な映画は、『リンダリンダリンダ』(2005)、『色即ぜねれいしょん』(2008)、『マイ・バック・ページ』(2011)、『もらとりあむタマ子』(2013)、『ピース オブ ケイク』(2015)、『聖の青春』(2016)、『愚行録』(2017)、『ハード・コア』(2018)他多数。『聖の青春』では、第71回毎日映画コンクール脚本賞を受賞。脚本を手掛けた主なテレビドラマは『深夜食堂』シリーズ(2009・2011)や『植木等とのぼせもん』(2017)、『歪んだ波紋』(2019)など。また、2018年には小説『猫は笑ってくれない』(ポプラ社)を上梓。
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