祭りの後
シナリオ・センター代表の小林です。オリンピックもパラリンピックも終わり、コロナ禍ではありますが、青山に日常が戻りつつあります。
外苑いちょう並木の道も通れるようになりましたが、歩道はなぜか囲いがしてあり、誰も通行させてないのに何のため囲ったのか、囲いはどうするのかと謎を残しつつ(?)出社。
会田誠さんの反骨のダンボール、ブルーシートの御城も取り壊されていました。
私は、アスリートの活躍とは全く関係なく、オリンピックもパラリンピックも今やるべきではないと開催反対でしたし、今もそう思っていますが、祭りの後のなんともいえない虚しさ、寂しさは、わかる気がします。
学生時代、文化祭や体育祭の立看板や飾りつけを壊し捨てる夕暮時、熱く共にはしゃぎまくった青春の1ページが終わった感を懐かしく思い出したりして・・・。
興奮が冷めた後、ふと我に返る時こそ、なにか本質が見えてくる気がします。
さて、オリンピック、パラリンピックが遺したものは?
小さなところで、国民の事を忘れて、己の利権のみで争っている人たちには見えないんだろうな。
私の大好きだったフランスの名優ジャンポール・ベルモンドさんが亡くなりました。
「勝手にしやがれ」の映画の一コマが印刷されているTシャツ未だに着ています。
「ボルサリーノ」はアランドロンとの共演で大ヒットしましたが、ドロンファンの後藤所長とベルモンド推しの私とどっちがカッコいいか小競り合いをしたものでした。
ベルモンドさん、享年88歳だと知って、ギョッ!
私の青春はすでに遥か彼方だということに気づかされました。悲しい!(笑)
歴史学者で、自分史を開拓された東京経済大学名誉教授の色川大吉さんがお亡くなりになりました。
現憲法を押し付け憲法だといった改憲派に「押し付け憲法というのは、歴史的に全く事実ではない」と。
ものごとを見極めて、教えて下さった方々がどんどん消えてしまいます。
残っているのは、「コロナは収束した」など嘯くクズばかり。
すべて「昭和は遠くなりにけり」でしょうか。
今日はやけに祭りの終わりの気分です。
小説 おちょやん
終わっても形に残るのが、映像や本です。
3月まで放映されていたNHK朝ドラ、出身ライターの八津弘幸さんの「おちょやん」大好評の裡に終わりましたがまた違った形で蘇ります。小説になりました。
「おちょやん」初恋編・結婚編・女優編の三部作です。(Gakken刊)
「おちょやん」結婚編・女優編を、出身ライターの舟崎泉美さんが書かれています。八津さんのシナリオを後輩の舟崎さんが小説化に、シナリオ・センターリレーバトンタッチの術でしょうか。(笑)
ドラマを小説化にする場合、想いや目的など映像では描きにくいものは、文章では簡単に書けるので、案外ノベライズって楽なのではと勝手に想像していました。
ところが、そんなもんじゃないんですね。
ト書に表した部分、映像で見えるように書いたけれど、文章にそのまましたらみえません。伝わりません。表情や動作は、文章では反対に見えないからです。
文章表現(小説)と映像表現の違いは、基礎講座の第一番にお教えしています。
例えば時間経過、 映像では「やがて」とか「まもなく」って書いても時間は描けませんが、小説ならそのままで、簡単に表せます。
例えば心理描写や形容詞、映像では表情や動作、小道具などを巧みに使わないと出せませんが、小説だと「千代は久しぶりに思い出して胸が熱くなった」と。
例えば人物関係、基礎講座の課題に出る「魅力ある叔父さん」、叔父さんをわからせるのに、八百屋のおじさんか、叔父さんか伯父さんかわからないので、三角法を使ってわからせるのですが、小説だと「叔父さん」と書けば両親のどちらかの弟というのはわかります。
「一平は、物干し台に座って考え事をしていた」こう書けば、目的状況は一目瞭然ですが、映像では考え事をしているのかぼーっとしているのか、見せ方次第で伝わりません。
事程左様に、映像表現と文章表現は違うので、ドラマを小説化するには、ドラマで視聴者が感じた雰囲気を壊さないように、書きすぎてもいけないし、描かなくてもいけないしで、シナリオが書ける人ではないと、ドラマのノベライズって難しいかもしれません。
舟崎さんは、やはり出身ライターのいずみ吉紘さんのシナリオ、寺尾聡さん主演の「吹奏楽部 仰げば尊し」の小説化もされています。
小説家であり、脚本家・監督と多彩な舟崎さんだからこそ、映像を彷彿させる楽しい小説になっています。