国葬
シナリオ・センター代表の小林です。先週は2回も祭日があって、なんだか得した気分です。
どちらも台風でほぼほぼおうちでまったり。それもまたヨシというところでしょうか。夏の疲れも出てきますしね。
でも、前半は九州西日本、後半は山陰東海を中心に日本縦断台風は各地に大きな被害をもたらしているので、被災された方を思うと本当にまったりしていられた自分が申し訳なく思います。
亡くなった方も、おうちを失われた方もいらっしゃるし、被害はすぐに収まるものではなく、いち早く国や自治体がフォローしてほしいものです。
カナダでも大きなハリケーンに家が流されたりと大変で、カナダ・トルドー首相 は、「私は日本での国葬には参列しません。そして、政府はこの大きな嵐を受けて、国民を支援するために全面的に取り組んでいます」と明日の国葬を欠席して、災害支援に取り組むと声明を出しました。
日本も同じような状態なのですから、岸田首相も緊急声明を出して、国葬を取りやめて、被災された方々へ向き合ってはいかがでしょうか。
「今更それはまずい!」という人がいるとすれば、自民党とお金持ちの一部くらいで、国民の大多数は喝采を送ると思うのですが。
49日も過ぎてもはや彼岸を渡られた方に今更葬儀でもないですしね。
武道館の近所の通学をしないよう強いられている学校は、学校関係者も父兄もコロナだけも時間を失ったのに、また?!と、しかも子供が休みになると仕事を休まなければならない父兄もでてくるし、タクシーや宅急便の方々は動けなくて稼げないと・・・。
日々の民の生活そのものを知らないと、困る人のことまで想いを馳せることはできないでしょう。
そういう人たちだけで国を司っているとしたら、きっとこの国は終わります。国葬って、そういう意味?
モンタージュ
毎日配信されるウクライナ侵攻のニュースを見ていて思い出したのが、ウクライナの港の街オデッサを舞台にした「戦艦ポチョムキン」。
ロシア帝国のコザック軍が民衆を虐殺するオデッサの階段。そして、ポチョムキン号の水平たちの反乱と蜂起するオデッサの民衆。その対立を描いた映画なのです。
なんだか、100年も前の映画なのに、今を見ている気にさせられます。
映像を志す者は、大学や映像学校で必ず勉強させられる、または見せられる映画です。
もちろん、シナリオ・センターでも講座でお話しします。
映像の枠というものを使った最高の技術として語り続けられ、作り続けられているモンタージュ論を語るためです。
モンタージュ論を作り上げたのはエイゼンシュテイン監督。
彼の監督した「戦艦ポチョムキン」(1925)は、映像にかかわる者にとっては基本の基本、知っていなければならないものです。
モンタージュは、次々と様々なシーンが断片的に組み合わせることによって、それを観客が繋げた時に強い力を持つイメージを生み出します。語ることなく映像だけで、作者の意図を十分に知らせることができます。
また、もう一つの大きな意味は、二つ以上のカットなりシーンをつないで見せて、別のものを表現します。
例えば、王様が豪奢な城の中で贅沢なごちそうを食べ散らかして、ついには捨ててしまうというシーンを出しておいて、次のシーンは、貧しい百姓家で、5人の子どもたちがわずかな豆を争って食べるというシーン。
これをつなぐと、黙っていても、こうした世の中があっていいものだろうか?という気持ちを観客に思わせることができます。
シナリオの技術の初めの一歩です。
映像表現は、見せ方です。
うまいセリフを描くことに力を入れがちですが、雄弁に語らせなくても映像で見せて共感を呼ばせることができたら、それが最高のドラマではないでしょうか。
「30万人動員」をきれいな部屋でピシッとした背広を着て語るプーチン首相、泥まみれになりながら生気のない顔で銃撃している兵士たち。
激烈な自然災害の中呆然と立ち尽くす人、にこやかに閣議決定をする閣僚たち。
武道館に飾られるたくさんの花々、雨に濡れながらフードバンクに並ぶ人々・・・対比はいくらでもあり、ドラマはいくらでも生まれてきます。
あなただったら何を語りますか。
自分の目で見て耳で聞いて感じて、シナリオの技術を駆使して、伝えてください。