原発3倍
シナリオ・センター代表の小林です。余談の許さない気候です。おかげで、鼻水がずるずる、喉がイガイガしてきたので、すわ風邪かと思い、病院で診てもらったところ、流行りの寒暖差アレルギーとか言われて・・・。
熱もないし、頭も痛くないし、食欲全開だし、インフルと言われないでよかったけれど、いや~こんな流行には乗りたくなかった。(笑)
皆様もくれぐれもお気をつけ下さい。といって、どう気をつければいいのでしょうね。
今週も寒暖差は激しいようですので、コートとかセーターとかで変化に対応してくださいね。
本当にこの国はおかしいと思います。
COP228(国連気候変動会議)で原発3倍に日本は賛同したそうです。
再生可能エネルギーを2030年までに3倍というのは118ヶ国、日本も賛同したのはいいと思いますけれど、わずか21ヶ国、日本以外はもともと原発推進の国だけが賛同しただけなのに、日本が躊躇なく賛同するって、おかしくないですか。
日本のお上が無責任なのはよ~くわかっておりますが、それにしても未来のことは露とも頭にかすめていない。
日本は福島原発事故からの復興もまだまだ。汚染水処理だってヤバイ。
廃炉のメドも立たず、政府が発令した『原子力緊急事態宣言』もいまだ解除されていません。
原発の使用済核燃料から出る高レベル放射性廃棄物「核のゴミ」の最終処分は何も決まってもいません。
しかし過日、地球科学の専門家有志が「日本に適地はない」という声明も出しています。
大体地震国の日本に原発なんて無理なんですよね。
世論調査では原発の賛否は拮抗しているのに、どうして『原発3倍』にあっさり賛同してしまうのか、「おじさん、馬鹿なの?」なんて、いいたくなっちゃいます。
富岡製糸場
日曜日に世界遺産の富岡製糸場に行ってきました。
抜けるような青空の中、とても気持ちの良い日曜日、早起きして出かけました。
ショックをうけました。私はしみじみものを知らないということに唖然しました。
ものごとは、しっかりと見定めなくちゃいけないのだなぁと思った1日でした。
というのは、「野麦峠」で有名な女工哀史。安い賃金で朝4時から夜10時過ぎまで働かせられ、結核で死んで行った女工さんのお話しです。
富岡製糸場もそういうところだったのだとずーっと思い込んでいました。
ところが、まったく違いました。女工哀史は大正末期から昭和初期の岡谷製糸場でのお話しでした。
富岡製糸場は、明治5年、渋沢栄一、尾高惇志等によって、フランスの技術者を雇い、フランスの製糸技術、動力用蒸気エンジンなどを取りそろえた画期的な工場として作られ、高品質の生糸の大量生産に貢献していたのです。
なので、世界遺産に認定されたんです。
この工場が画期的なのは、フランスの技術というだけでなく、工女が活躍したということです。
江戸時代が終わってすぐの明治5年らしく、工女募集の時に「フランス人が工女の生き血を吸って飲む」という恐ろしい噂が流れ、全く工女が集まらなかったそうです。
今だと笑い話ですが、ワインは血のように見えたのでしょうね。
苦肉の策として、初代の工場長尾高の娘とか知事の娘、高官の娘を工女にしたところ、33県からたくさん集まったそうです。
しかも、全く女工哀史なんかじゃないのです。
創業当時の工女生活は、季節によって(電気がないので日照時間で)も違いますが、1日平均7時間45分、日曜日休み、給料は等級ありの月給制、宿舎、病院が場内にあり、食費や医療費は国が負担していました。
びっくりでしょ、今よりずーっと先進的な労働環境だったのですね。
技術習得後は故郷に戻り、指導者になって活躍する者も多々いたそうです。
生半可な知識だけの私は、とても恥ずかしく、なんでもちゃんと自分の眼で耳で足で確かめなくっちゃと改めて思わされました。
見学の後、疑問に思ったことがひとつ。どこにも説明がありません。
何かというと、繭玉から生糸を取った後の茹でられた大量のお蚕様の始末はどうしたんだろうということ。貝塚ならぬ蚕塚もないし・・・。
帰りがけに、入口の方にお聴きしたら、「食べた」と、さらっといわれました。
なるほど貴重なたんぱく源ですものね。食べきれないものは、肥料にしたのだそうです。
その方曰く、つくだ煮も美味しいけれど、唐揚げにお塩ふって食べるといくらでも食べられる、うちのおばあちゃんは毎日食べていたので、90歳になってもシミ一つないと。
ガーン!「私も食べたい~」(笑)と思いながら帰途につきました。